JUGEMテーマ:エッセイ
「生きとし生けるものは必ず死ぬんだよ。」
私はそのことを飼い猫から教わった。
猫の生き様を通して
命の儚さと大切さを教わったのである。
子供の頃から私の周りには常に猫がいて、
私を愛せない母の代わりに、
私を愛し、慰め、たくさんのことを教えてくれたのだ。
死んでしまいたいと何度も思った寂しい子供時代に、
猫だけは私のそばを片時も離れなかった。
そんな私は大人になった今でも
たくさんの猫に囲まれて生きている。
けれど猫の寿命はせいぜい十数年だ。
私がどんなに彼らを愛しても、
持って生まれた彼らの寿命を延ばすことはできないのである。
私は今まで何度も猫を見送り、
その度に悲しみに打ちひしがれて、
何度も何度も後を追ってしまいたいと思った。
生きることへの執着が薄い私には、
猫との別れは耐え難き苦しみなのである。
それでも私が今こうして生きているのは、
我が家に猫が絶え間なくやって来るから。
猫がどこからともなく庭に姿を現しては、
小さな命を剥き出しにして助けを求めるからだ。
「よし! この子が天寿を全うするまで
私が責任を持って面倒を見よう!」
私は毎度そう自分に誓って、
地に足をつけ直すのだ。
最後の1匹が天寿を全うするまで、
取り敢えずこの世に生き続けようと。
ところが私の誓いをこっそり聞いていた神様が、
「なぬ?なぬ?
猫がいなくなったらあやつは死んでしまうのか!」
と私を心配して、
我が家にごまんと猫を送り込んでしまったから、
私はなかなか後を追えないのである。
「なんてこった・・・、なんてこった・・・。
20匹はさすがにキツイぜ!」
私は神様にブツブツ文句を言いながら、
毎日髪の毛を振り乱して猫様のお世話をしているのである。
そして生きながらふと感じることは、
空がとっても美しいってこと、
りんごがこの上なく美味しいってこと、
どんなに嫌なことがあってもお腹は空くし、
お笑い芸人のネタがツボにはまれば
ついつい笑ってしまう、
いつのまにか楽しいことや美味しいことに紛れて、
辛い記憶が薄らいでいくっていうこと。
人生は思いのほかシンプルなのだ。
だから私は最後の猫が天寿を全うしても、
もう後を追いたいと思わないことにする。
生きとし生けるもの、いつか必ず死ぬのだから、
天寿を全うするその瞬間まで
美しい空を眺めて、
美味しいりんごを頬張って、
今生出会った愛するものたちに
思いを馳せる方が断然お得というものだ。
神様がどうして私に20匹の猫を授けたのか、
それはこの世はまんざらでもないってことに
気づく時間を与えたかったからなのだ。
生きとし生けるもの、いつか必ず死ぬのだから、
先を急ぐ必要なんてないんだよ。
今日を乗り越えれば明日はもっと
美味しいりんごが食べられるかもしれないよ、って。
だから私はちゃんと天寿を全うすることにします。
神様の許可を得てから天に還ることと致します。
天寿を全うすること、それは、
この世に生を受ける時、
神様と交わしたたった一つの約束事だから。
天寿を全うすること、それは、
この世に生を受ける時、
誰もが交わす神様とのたった一つの約束事。
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JUGEMテーマ:エッセイ
コロナウイルスが遂に日本でも猛威を振るい始めた。
昨夜の小池百合子東京都知事の記者会見を見ながら、
私は危機的状況がすぐそこまで差し迫っていることを悟ったのだった。
これは人間対ウイルスの戦いである。
しかも敵はどこにいるか分からない。
いや、もはやどこにでも存在しているのかもしれない。
そんな敵に立ち向かうためには、
手洗い、うがい、咳エチケットはもちろんのこと、
万が一菌に触れたとしても感染しないだけの強い体を作ることである。
今、私たちが持ち得る最高の武器は免疫力なのだ。
しかしそれはどこにも売っていない。
各自それぞれが自分の体を心から愛し、感謝し、
素直に耳を傾けることでしか手に入れられない代物なのである。
今、体が欲している栄養素は何なのか、
体は何をしてほしいのか、してほしくないのか・・・。
そういう体からのメッセージに真摯に向き合うことで、
免疫力は信じられないくらい高まるのである。
少し前に拡散された、
「白湯を飲むとコロナウイルスを予防できるらしい」という情報は、
後日専門家によって何の根拠もないと大バッシングされたけれど、
あの情報は正しいと私の体は叫んでいる。
白湯を飲み体を温めることで免疫力は高まり、
菌に侵されにくくなるからだ。
それはコロナウイルスとて同じことである。
また、私は新型コロナウイルスが発見される少し前から、
やたらと舞茸が食べたくなった。
それまでシメジやシイタケを好んで食べていたのに、
突然舞茸ばかりを食べるようになったのである。
そういうことは今までに何度もあり、
後になって合点がいくことが多々あったので、
私は今回も素直に従うことにしてみたのだった。
そして後日調べてみると、
舞茸は漢方にも用いられる医食同源の食材で、
免疫力を活性化し、抗がん作用、
抗HIV作用も確認されているということが分かった。
このように体はその時々で何を食べ、
何を為すべきかを教えてくれるのである。
そして私は今、柑橘類を毎日死ぬほど食べている。
これを何かのヒントにして頂けたら誠に幸いにて候。
さあ、一人でも多くの人が自ら最強の武器を手に入れて、
コロナウイルスを撃退しようではありませんか。
感染しないように生活することは私たち一人一人の義務なのです。
感染しないということは既に感染してしまった人を
守ることにもつながります。
オーバーシュートが起こればたちまち医療が崩壊し、
助かる命も助からなくなってしまうのだから。
だから私は声を大にして言います!
「今週末はお仕事以外の人は外出するのをやめましょう!」
東京都民の方のみならず、日本全国の皆さん、
今週末はお家で過ごそうではありませんか!
その行為は日本のためになります。
世界のためになります。
何なら世界平和のためです。
寂しいとかつまんないとか言わないで、
今週末はとにかくお家で過ごしましょう。
見えない敵をこれ以上拡散させてなるものか!
コロナなんかに負けてなるものか!
コロナウイルスなんかフンコロガシにコロコロ転がしてもらって、
肥溜めにポイしてもらうのが一番です。
さあ、みんなで手と手を取り合ってこの戦いに勝ち抜きましょう。
コロナコロコロあばよだぜーい!
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JUGEMテーマ:エッセイ
千葉県北東部に住んでいる私は、
この秋、台風15号で被災した。
私自身に怪我はなかったものの
家屋は一部損壊してしまったのだった。
屋根瓦が何枚か吹き飛び、
そのうちの一枚がベランダの床を貫通して穴が開き、
家をぐるりと取り囲んでいるブロック塀は
最大瞬間風速50m以上の風に煽られて数か所が崩れ、
庭木も何本か倒れてしまった。
私は生れて初めて台風を怖いと思ったのだった。
しかし同じ町内には倒木で家が押し潰されたり、
家の壁を風に丸ごと持っていかれたお宅もあったのだから、
我が家の被害はまだまだ軽い方だと言える。
最も深刻なのは辺り一帯の農家だった。
何カ月も手塩にかけて育ててきた収穫間際の落花生や里芋が
強風に根こそぎ倒された挙句、滝のような大雨に打ちつけられて
一瞬で水没してしまったのである。
この地球上で一番力を持っているのは自然なのだ。
そのことをすっかり忘れて生きている私たち人間に、
もしかしたら神様が喝を入れたのかもしれない。
それくらい自然の猛威は恐ろしかった。
しかし自然の猛威はそれだけでは終わらなったのである。
史上最大級の台風は数えきれないほどの電柱までもなぎ倒し、
千葉県を中心に最大64万軒にも及ぶ大規模停電を引き起こしたのだった。
私たちは文明の利器まで取り上げられてしまったのである。
こうして我が町は9月9日午前2時頃から9月18日午後8時半まで、
11日間に渡る停電生活を送ることになったのだ。
いいや、それだけではない。
我が町の水道は各家庭ごとに地下水を電動ポンプで汲み上げる仕組みなので、
悲しき哉、停電と同時に断水までしてしまったのである。
日暮れと共に懐中電灯の薄明りの中で過ごし、
停電から二日後に設置された給水所で配給されたお水を温めて、
シャワー代わりに浴びる生活だ。
そんな日々の中で肉体的に一番きつかったのは
台風通過後の3日間だった。
フェーン現象と相まって36度〜37度の暑さが続き、
夜も30度を超えたままだったから、
クーラーも扇風機もない地獄のような蒸し暑さの中で、
たくさんの人が熱中症で救急搬送されたのだった。
そして精神的に最も辛かったことは、
停電後5日間は食料がまともに手に入らなかったことである。
商店のほとんどが台風で被災した上に停電で店を開けられず、
多くの人が食料や生活必需品、ガソリンを探し求めてパニック状態となり、
信号機が作動しない道路では事故が多発した。
「被災するってこういうことなんだ・・・」
私は当然のように目の前にあった日常が消えたことを実感して、
ようやく自分が被災したことを理解したのだった。
日常を失うということはとてつもなく不自由で、
先を見通せない不安が胸いっぱいに広がる。
被災者はまさか自分がこうなるなんて
夢にも思っていなかったから、
未経験の事態に強烈なダメージを受けてしまうのだ。
幸い私は台風被害を受けずに済んだ遠方のツイッター仲間たちが
食べ物や飲み物、健康グッズ、モバイルバッテリー、
それにネコのご飯やトイレの砂までお送り下さったので、
どうにか踏ん張ることができたし、死ぬほど励まされもした。
私はその時の有難みを決して忘れはしない。
千葉はその後も台風19号や10月下旬の記録的大雨によって
再三甚大な被害を受けてしまったけれど、
この経験が糧となり今後も押し寄せてくるであろう自然災害を
うまく乗り越えられる知恵と覚悟がついた気がする。
地球温暖化が予想をはるかに超えるスピードで進んでいる今、
熱せられた海水は一年を通じてスーパー台風を発生させ、
その中心気圧は少なからず大地にも影響を与え、
地震や噴火を誘引することにもなろう。
つまり地球上どこにいても、
前代未聞の自然災害に遭遇する確率は極めて高いということを、
私は今回の経験で身をもって知ることができたのだ。
だからこそ今改めて思うのは、
私たち一人一人が地球の負担を少しでも減らすべく、
地球資源を大切にする、ゴミをなるべく出さない、
自然環境に配慮した素材を使う等を心掛けることが大切だということ。
そしていざという時のために自分で自分の身を守る覚悟を持つこと。
最低でも一週間は自力で生きていけるだけの
水と食料と知恵を用意し、
商品在庫が豊富な今のうちにブルーシートや養生テープ、
折り畳み式のウォータータンク(容量20ℓ)等を購入しておくこと。
大災害に見舞われたら助けなんかすぐには来ないだろうし、
食料や飲料水も3日経てば行政が必ず支給してくれる保証はないのだ。
そんな時は自分の持ち物と知恵を駆使して生き延びるよりほかないのである。
災害時に私が神アイテムだと思った一つが
ペットシーツ(紙オムツでも可)である。
窓枠から侵入する横殴りの雨や天井からの雨漏りを
素早くキャッチしてくれただけでなく、
簡易トイレにもなる優れものだったからだ。
ツイッター仲間に教えてもらった通りに
ビニール袋にペットシーツを2枚を敷いて実行してみたところ、
充分すぎるくらい簡易トイレの役目を果たしてくれたのである。
しかも市販の簡易トイレよりも遥かにコスパが良い!
私たち現代人はすっかり文明の利器バカと化してしまったけれど、
こうして様々な知恵を出し合うことで、
どんな困難にも立ち向かうことができる生きものでもあるのだ。
いざという時の「いざ」が来ないことが一番だけれど、
「いざ」はいつか必ずやって来る、そう実感した私は、
「さぁ、次はあなたの番ですよ!」
とすべての人に注意喚起したいのだ。
だからと言って必要以上に恐れることなく、
インチキな予言に翻弄されることもなく、
いざという時に慌てないようにしっかりと準備をして、
心を強く持って生きましょうと伝えたいのだ。
何でもかんでもポイポイ捨てずに、
自然をちゃんとリスペクトして、
生きる場所があることに感謝して。
何が何でも生きるんだ!と
意を決して生き抜きましょう。
この星があるから今日も笑うことができて、
この星があるから明日が来ることを当たり前だと思えて、
そんな愛しい地球にもっともっと感謝して、
今日も明日も精一杯生き抜きましょう。
ありがとう、ありがとう。
私たちの大切な地球。
ありがとう、ありがとう、
生きる機会を与えてくれて。
私は被災したおかげで、
たくさんのことに気づくことができのだった。
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JUGEMテーマ:エッセイ
今から二カ月ほど前に偶然見た、
世界的ディジュリドゥ奏者
GOMAさん(日本人)のドキュメンタリー番組に、
私は深く考えさせられたのだった。
彼は2009年11月、
高速道路で追突事故に遭ってから、
人生が一変してしまった人なのである。
事故当日の彼には目立った外傷はなく、
その日はむち打ち症と診断されて帰宅したのだが、
それ以降の彼は何かが違った。
家族との会話が噛み合わない。
記憶が断片的に消えている。
そしてその消えた記憶の中には、
自分がディジュリドゥ奏者だということも
含まれていたのだ。
後日病院で検査してみると、彼の脳は事故によって損傷し、
高次脳機能障害を発症していることが判明した。
言語、記憶、行為、学習、注意など、
脳の知的活動に障害が生じていたのである。
とりわけ彼を混乱させたのは、
事故の二日後に現れたある変化だった。
それまで絵をほとんど描いたことがない彼が、
なぜか絵を描かずにはいられない衝動に駆られたのだ。
そして彼はそれ以来、朝起きると絵筆を握り、
一日のほとんどを絵を描いて過ごすようになった。
脳裏に浮かぶイメージを点描画で表現し、
その緻密さと鮮やかな色彩は多方面から注目され、
いつしか彼は個展を開くまでになっていた。
事故前には想像もしなかったそんな自分の人生に、
彼はとまどい、今ももがき続けている。
幸い、彼の記憶から消えていた、
自分がディジュリドゥ奏者であるという現実は、
体が覚えていてくれたおかげで、
どうにか少しずつ取り戻すことができたのだった。
ある日アメリカに渡った彼は、
自分と同じような症状を持つ人々を
長年研究している博士に会い、
自分が後天性サヴァン症候群だったことを
やっと突き止めたのだ。
通常、サヴァン症候群とは、
自閉症スペクトラムなどの精神障害がある一方で、
突出した才能を持っている症状のことを指す。
GOMAさんの場合は事故で脳が損傷したことによって、
突如絵を描く才能が開花したのである。
しかしなぜ絵を描く才能だったのかは、
誰にも分からない。
ディジュリドゥを演奏しながら、
絵をひたすら描き続けるGOMAさん。
一つの人生を二度生きているようなその姿が、
私にはなんとなく、
前世と今生を同時に生きている人のように見えるのだ。
GOMAさんはもう二度と
事故前の自分に戻ることはできないけれど、
新しくやって来た才能は、
また別の幸せを実感させてくれるに違いない。
音楽とアート、
二つの才能を同時に開花させて生きる
ゴマさんの不思議な物語。
稀に見る人生を生きるGOMAさんは、
きっと選ばれし人だと私は思うのだ。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
熊本地震が発生してから今日で二年が経った。
震度7の二回の地震で50名の方が亡くなり、
震災関連死で203名の方が亡くなった。
人生が止まる人、人生が変わる人。
自然災害はいつでも手厳しい。
人生が止まっても、人生が変わっても、
誰のせいにもできない悲しみがある。
愛する人を見送る寂しさと、
愛する人を置いていく切なさは、
きっとどちらも同じ重さ。
だから慌てなくていいよ、
ゆっくりでいいよ。
その時がくるまで静かに待てばいい。
愛した人と自分の心が、
まだあの空でクロスしていても、
無理に剥がす必要なんてないんだよ。
だってかさぶたは自然に剥がれた方が、
傷口はしっかり治るもの。
まだ二年、まだ痛いもの、
まだまだ泣いていいんだもの。
まだ二年、悲しみが癒えるには、
まだまだ足りない月日だもの。
被災したすべての方に、
震災前と同じ笑顔が戻りますように。
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JUGEMテーマ:エッセイ
私の心の中にずっと住み続けているアニメがある。
それは子供の頃に見た「アルプスの少女ハイジ」だ。
大自然の中で繰り広げられる
ハイジの生き生きとした日常は、
幼かった私の心をいつでもワクワクさせてくれた。
ヤギ飼いの少年ペーターとの友情や、
小鳥のピッチー、子ヤギのユキちゃんたちとの触れ合い、
寡黙なおじいさんとハイジの心の交流、
そして都会のお嬢様クララとの出会い・・・。
ハイジが経験するすべての事柄が、
まるで自分の経験のように心を揺さぶったものだ。
それはテレビ画面が映し出すハイジの世界が、
あまりにもリアルだったからだろう。
登場人物の表情やしぐさ、
アルプスの山並みと木々たちの揺らめき、
干し草ベッドに至っては、
ふかふかな感じまで手に取るように伝わってきた。
そんなふうに丁寧に丁寧に描かれたアルプスの少女ハイジと、
「火垂るの墓」を手掛けた人物が同じだということを、
私はだいぶ後になってから知ったのだった。
けれどそこに共通する
心情豊かな映像のリアリティに、
私は妙に納得していた。
「火垂るの墓」もまた、
私にとっては忘れられない作品だったからだ。
高畑勲監督が生涯をかけて生み出した多くの作品は、
私にそうしたように、
きっと世界中の人々の心を動かしてきたことだろう。
二次元で描かれるアニメーションの世界が、
三次元以上の広がりに感じられるほど、
登場人物の心や風景がありありと生きているからだ。
高畑監督はもうこの世にはいないけれど、
監督の思いはこれからも作品の中に生き続けるだろう。
ささやかな幸せにも感謝して生きることが、
何より大切なんだよというメッセージ。
もう十分すぎるほどご自分の天命を全うし、
天国へ旅立たれた高畑勲様。
今までたくさんの感動をありがとうございました。
あなたが残してくれた作品たちは、
これからもずっとずっと人類の宝物なのです。
どうぞ安らかにお眠り下さい。
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JUGEMテーマ:エッセイ
「時間とは、
過去から未来に向かって一定方向に流れるもの。」
これが「時間」に対する世界共通の認識だろう。
けれど時空間理論には、
「現在・過去・未来が同じ時空に同時に存在する」
というブロック宇宙論というものがある。
これは一見SFチックではあるけれど、
「時間」を量子力学で捉えた場合、
それはあり得る話なのだ。
物質世界では時間は過去から未来へと流れ、
形あるものは必ず経年劣化するけれど、
量子というこの世の最小単位の状態では、
未来が過去に影響を与えたり、
天文学的な距離さえ飛び超えて、
二つの離れ離れの量子が
同じ振る舞いをすることが分かっている。
これを「量子もつれ」と言い、
この状態にある二つの量子は、
時空を飛び越えて瞬時に情報を伝達し合うのだ。
また、量子は想念とも深く関わっていて、
ある実験で多くの人が集まり、
世界平和を願って一斉に祈り始めると、
会場を包み込むように無数の量子が観測されたのである。
もしも人の想念が量子そのもの、または、
量子に多大な影響を与えられるものとするならば、
想念によって現在・過去・未来を自在に行き来したり、
どんなに遠く離れた場所にも瞬時に移動できるということなのだ。
それは過去に起こった出来事を変えることはできなくとも、
そこに付随する感情を修正することができるということだ。
たとえば過去に深く傷ついた出来事があるのなら、
その傷を現在の自分が完全に癒すことで、
過去の自分も同時に癒されるということである。
そして未来の自分が現在の自分に
情報を伝達することだってあり得るのだ。
それを「逆因果」と呼ぶ。
「原因は過去ではなく未来にある」として、
「今」はその結果なのだという考え方のこと。
たとえば未来の自分が歌手ならば、
子供の頃からなぜか歌うことが大好きで、
歌が上達するためのあらゆる努力をしてきただろうし、
もし未来の自分がイタリア人と結婚し、
イタリアに住んでいるならば、
現在の自分はどういうわけだかイタリア語を習い、
イタリアのことを猛勉強するだろう。
これが逆因果だ。
理由はよく分からないけれど、
なぜかそうしたくなる衝動がある場合、
それは未来という原因のせいかもしれないのである。
量子の世界では、
テレポーテーションもタイムトラベルも、
実際に起こっている現象なのだから、
逆因果という考えがあっても
ちっとも不思議ではないと私は思うのだ。
なぜなら私は一度だけ、たった一度だけ
実はこの目で見てしまったからなのである。
颯爽と歩く遠い未来の自分の姿を。
77歳になって尚、颯爽と歩く自分自身を、
私ははっきりと見てしまったのだ。
そして私はそうなるために、
今まで全力で生きてきたことに気づいたのだ。
あの日、自分の人生の原因を知ったことで、
私は安心して生きられるようになった気がする。
目の前にある一つ一つの出来事の理由が分かったことで、
安心して人生の流れに乗れるようになった気がする。
そして未来の自分がさらに輝けるように、
今を精一杯生きようと思えたのである。
もしかしたらあの日見かけた未来の私は、
過去の私にエールを送りに来たのかもしれない。
ならば私は未来の自分に向かって、
これからも全力で生きるしかないのである。
あんな風に颯爽と歩き続けるために。
あの日見た私自身が、
なりたい自分の姿で本当に良かった。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
NHKのニュース7を見ていたら、
殺伐とした事件・事故の間に挟まれて、
素敵な話題が一つキラリと光っていた。
それは尾関清子さんという88歳の女性が
立命館大学にて、
博士号を取得したというニュースだ。
尾関さんは30年以上にわたり、
日本各地で出土した縄文時代の布の編み方などについて、
研究し続けた人なのである。
そして日本の布に関する文化の起源と
特質をまとめた論文が、
このほど大学の審査で認められたのだ。
88歳での学位取得は、
現在のところ日本国内では最高齢とのこと。
この快挙にご本人は、
「感無量で、私の生涯の一番光栄な出来事」
と静かに語り、そっと涙を拭ったのだった。
そのお上品な所作と、
それとは対照的な意思の強さが、
私の胸をときめかせたのだ。
88歳と言えば米寿の祝いも過ぎて、
世間一般ではご老人と呼んで差し支えない年齢だろう。
けれど尾関さんは来る日も来る日も研究を積み重ね、
遂にその道の第一人者になったのである。
なんて素晴らしい生き方なんだろう。
人生という自分に割り当てられた時間を、
こんなにも意図的に使っているなんて。
これこそが「生きる=活きる」ということではないだろうか。
それは私が最もそうしたいと思う生き方である。
意図的に生きている人はとても美しい。
今に集中し、自分と深く繋がることで、
恐れという概念が消滅するからだ。
恐れのない生き方はパワフルで、
とてつもなくまばゆい。
その光こそが本来誰もが持っているはずの
生きる力なのだ。
誰もが持っているはずなのに、
人によってはすっかり忘れてしまっている光。
88歳の尾関さんが学位記授与式の際に
仰った言葉は、
「これからも研究に励んでいきたい。」
彼女は自分の限界などまるで設定していないのである。
そして最後に語った、
今の若者たちに伝えたいこと。
「何事もこれはと思ったら、
徹底的に関心を持って研究してもらいたいと感じている。」
88歳の博士が放った熱い思いに、
私は素敵に年齢を重ねるということの
神髄を見せて頂いたのだった。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私たちの意識には、
「顕在意識(表面意識)」と呼ばれる
普段、意識することのできる意識と、
「潜在意識(無意識)」という、
普段、自覚できない意識とがある。
そして二つの意識の間には、
「変性意識状態」というものがある。
これは「トランス状態」や「瞑想状態」、
「催眠状態」のように、
通常の覚醒している時とは異なる意識状態のことで、
潜在意識に最も影響を与えられる状態のことである。
この状態になると、
宇宙との一体感や至福感に包まれたり、
不思議な感覚や幻覚、幻聴を体験することもあるそうだ。
古代インドではこの変性意識状態を
「真の覚醒状態」として捉え、
その状態に入るための様々なテクニックが
研究されてきたということだ。
しかしながら実は誰もが、
一日に数回は変性意識状態に入っている。
夜眠りにつく時、通勤電車内で居眠りする時、
湯船に浸かってぼんやりしている時・・・etc。
心身が究極にリラックスしたり、
反対に極限まで追い詰められたり、
または尋常ではないほど集中力を発揮した時に、
変性意識状態に突入しやすくなるのだ。
この時に、将来なりたい自分や目標を宣言して、
潜在意識に上書きできれば、
未来はより良い方向へと変わっていくだろう。
私たちの意識の90%を占める潜在意識には、
問いに対するすべての答えがあり、
願望を叶えてくれる魔法の力があるのだから。
直感は潜在意識が与えてくれるもの。
変性意識はこちらから潜在意識に語りかける手段。
こうして常に潜在意識とキャッチボールできたなら、
きっと世界中に幸せな魔法使いが溢れるだろう。
まずは自分の願いを叶えて、
次に誰かの幸せのために願いを叶えて、
そうして魔法使いたちが杖を振るたびに、
世界は一歩ずつ平和に近づいていくのだ。
それが真の覚醒なのである。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
あの日から今日でちょうど7年が経つ。
14時46分に発生したマグニチュード9の地震で、
1万5,895名の方が亡くなり、
2,539名の方が未だ行方不明となっている。
私は当時も千葉県に住み、
生れて初めて震度6強を体験した。
地上15mほどの高架道路上にいた私は、
アスファルトがゴムのように波打つのを目撃し、
自分は道路もろとも地面へ落下して死ぬのだと、
パニック状態で右往左往したものだ。
千葉県内では津波などの被害で、
死者・行方不明者数は23名に上った。
震源地から遠く離れた場所でも
これほど恐ろしかったのだから、
宮城、岩手、福島の人々の恐怖は想像に余りある。
亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、
今なお復興を実感できない多くの被災者がいることを、
私たちは決して忘れてはならないと思う。
家や職場を失い、家族を失い、
生きる希望を失った人々が今も苦しんでいることを、
片時も忘れてはならないのだ。
地球という自然界に住まわせて頂いている以上、
私たちにいつ何が起こるか分からない。
それが7年前の東日本大震災であり、
23年前の阪神・淡路大震災なのだ。
そして今現在、
霧島連山・新燃岳が噴火している。
自然に逆らうことも、
未来を先読みして生きることもできない私たちに、
唯一できるのは自然を崇めて感謝すること。
自然の恵みを頂き、
生きものの命を頂いて生きていることを、
自覚して謙虚に生きること。
そうやって日々自然に向き合うことで、
少しの変化にも気づけるようになるだろう。
それを恐怖ではなく、
愛のメッセージとして受け取れるなら、
自分を最大限に守ることができるのだ。
あの日のまま時が止まってしまった
たくさんの御霊と被災者の方々に、
私は今日一日、心を寄り添わせて過ごそうと思う。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
生きるということは、
肉体を持って経験することである。
生まれた瞬間から死ぬまでの間、
良いことも悪いことも
ただひたすらに経験する。
そしてその経験をどう活かすかが、
人生にとってとても大切なのだ。
たとえば何かに失敗した時に、
ただ嘆き悲しむだけならば、
その経験は悲しい記憶でしかない。
失敗という経験が活きてくるのは、
その理由に気づいて改善した時だけなのだ。
この「気づき」こそが人生の学びなのである。
傷つくことを怖れて自分の殻に閉じこもっていれば、
経験が少ない分、傷つく機会は減るだろう。
けれど気づく機会も学ぶ機会も減るのだから、
それはただ「生存」しているに他ならない。
人生の学びとは、
自らの経験と気づきがあってこそ得られるものであり、
たとえ何百冊の本を読んだからといって、
たとえ大金を払ってセミナーに参加したからといって、
自発的に気づかない限り学びは存在しないのだ。
愛する人を失った悲しみ、
家や会社を失った絶望感は、
実際に経験した人にしか分からない。
傍から見ればそれは不幸でしかないだろう。
けれど葛藤をくり返しながらも乗り越えた時に、
その経験は大きな学びとなり得るのだ。
そしてそれができた人こそが、
他人に最も優しくなれるのである。
敢えて不幸を選択する必要はないけれど、
もしも辛い出来事が降りかかってきたならば、
その経験は必ずや宝になると信じることだ。
どんなに時間がかかっても、
どんなにくじけそうになっても、
自ら気づいて学んだことは、
紛れもなく人生を豊かにするのだから。
愛を表現すること、
目標を達成することの至福、
物事がうまくいかない時の悔しさ、
出会いと別れ、
花の香り、とろけるような果実の甘さ、
そのどれもが肉体あっての経験なのである。
生きるとは経験すること。
学びとは経験して気づくことなのだ。
せっかく肉体を持って生きているのだから、
私は五感の限りを尽くし、
いろんなことに気づいていたい。
そしてやがて迎える「死」という最後の経験を、
私は穏やかに迎えたいと思うのだ。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
2月9日に開幕した平昌オリンピックが
まもなく終わりを迎えようとしている。
私は夏季、冬季いずれのオリンピックも大好きだ。
国や考え方が違っても、
スポーツを通して世界が一つになっていく感じが
たまらなく好きなのだ。
だからオリンピック開幕が違づいてくると、
私は毎度ソワソワしてしまう。
ところが今回のオリンピックに限っては、
開幕直前にシラケてしまった。
北朝鮮が急遽参加を表明してみたり、
開会式のために集まったはずの各国首脳クラスが、
政治的な匂いをプンプンさせて会談していたからだ。
いつもなら食い入るように見つめる開幕セレモニーは、
録画後にサラサラっとかいつまみ、
本格的に競技が始まってからも、
ニュースで結果をちょこちょこっと見てお終いにしていた。
そんな私の心に火をつけたのが、
大会4日目に初めて日本にメダル(銅)をもたらした、
フリースタイルスキー男子モーグルの原大智選手だ。
競技後のインタビューで
「楽しかった」を連発する姿を見ているうちに、
世界のトップリーダーたちの思惑なんてどうでもよくなり、
そもそもいかなる権力をもってしても、
この感動に便乗することなどできないということに気づいたからだ。
その後の日本人選手の活躍は目覚ましく、
特にフィギュアスケート男子シングル
羽生結弦選手の大会2連覇は圧巻だった。
オリンピックの3カ月前に右足に大怪我を負い、
2カ月半もリンクから離れていたのに、
そのことを忘れてしまうほど彼の演技は完璧だった。
更にはスピードスケートの小平奈緒選手、高木美帆選手、
スキージャンプの高梨沙羅選手、
フィギュアスケートの宇野昌磨選手、
宮原知子選手、坂本花織選手たち、
出場したすべての選手が本当に素晴らしかった。
最後の最後には高木奈那選手が
新種目のマススタートで金メダルを、
カーリング女子がオリンピックで初のメダル(銅)を獲得し、
日本中を沸かせてくれた。
この日のために来る日も来る日も
苦しい練習を積み重ねてきた彼らのことを、
私は心から尊敬する。
何度つまづいても挑み続けてきたその姿勢は、
私たちにたくさんのことを教えてくれ、
忘れかけていた大切なことを思い出させてくれた。
夢は叶うよ。やればできるよ。
こんなにシンプルな人生の教訓を、
若きアスリートたちは体を張って示してくれたのだ。
そんな彼らに私はありったけの賛辞を贈りたい。
17日間灯り続けたオリンピックの灯は
まもなく消えてしまうけれど、
選手一人一人の輝きは、
これから先もずっとずっと私たちの心に灯り続けるだろう。
選手にとって人生そのものだったオリンピックがもうすぐ終わる。
数えきれないほどたくさんの感動を、
本当に本当にありがとう。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私たちが世の中を見る時、
どんな人もどんな場合にも、
必ず自分というレンズを通して見ている。
自分というレンズが透き通っていれば、
世の中はクリアに見えるし、
自分というレンズがくもっていれば、
見るものすべてが霞んでしまう。
自分というレンズは、
心の奥に進めば進むほど透明度が増してくるもの。
あるがままの自分、
真っ直ぐな自分に近づくほど、
レンズは一点のくもりなく透き通ってくる。
人はその場所を「本質」と呼ぶ。
自分の本質に到達できれば、
透明なレンズは
世の中をはっきりと見せてくれるだろう。
何が本物で何が偽物なのかすぐに分かるから、
戸惑いや不安を感じることはなくなる。
けれど本質から遠く離れてしまえば、
レンズはくもり世界はぼやけてしまうから、
たとえきれいなお花が咲いても、
ゴミにしか見えないかもしれない。
誰かが微笑んでくれたとしても、
怒った顔にしか見えないかもしれない。
本質から離れるということは、
真実を見失ってしまうことなのだ。
本質から離れるほどに、
人は不満や怒りを感じやすくなる。
もし世の中の本当の美しさを知りたいなら、
まずは自分自身の美しさを知り、
もし誰かの愛に触れたいのなら、
まずは自分自身を十分に愛することだ。
外界への入り口である
自分と深く関わらなければ、
世界もまた深く知ることはできないのだから。
私はいつでも透明なレンズで、
世の中の真実を見ていたい。
溢れる意見にぶれることなく、
そのままの花色を、本物の優しさを、
これからも自分自身で判断していきたい。
だから私は今日もまた、
あるがままの自分を生きるのだ。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
魂はもともと巨大なお餅のようなもの。
この世に生まれ落ちる時に、
みんながそれぞれ分けて頂くもの。
小さなお餅はその行き先々で、
あんころ餅やきな粉餅になるけれど、
何をまぶされても何で包まれても、
お餅はお餅、
別の何かになるわけじゃない。
やがて一つの人生が終わったら、
小さなお餅は巨大なお餅へと還っていく。
そしてそれぞれが得たたくさんの学びを、
魂全体で分かち合うのだ。
すべての命に魂が宿り、
それぞれの魂は繋がっている。
たとえ「あなた」と「私」、
「あの子」と「この子」に分かれていても、
魂はもともと一つの塊。
だからもし「あなた」が「私」を傷つけるなら、
「あなた」はとても傷つくだろう。
なぜなら「あなた」は「私」という自分を
傷つけることになるのだから。
「あなた」がもし「私」を愛するならば、
「あなた」はたくさんの愛を受け取るだろう。
「あなた」は「私」という自分を
愛することになるのだから。
愛を送れば愛が戻り、
憎しみを送れば憎しみが返ってくる。
それもこれもすべての理由は、
魂はすべて一つの塊だということ。
魂は永遠に存在するもの。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
その人の言動を見ていると、
その人のおおよその未来が見えてくる。
きっとこの先も幸せな人生を歩むだろう、とか、
このまま不幸な人生に突入していくだろう、とか。
そしてその予想はほぼ外れない。
それは私に特別な能力があるからではなく、
各々が発する言動の中にこそ、
各々の未来が隠れているからだ。
私たちには誰しも思い癖というものがある。
物事を肯定的に受け取ったり、
否定的に捉えたり、
自身に起こる出来事を人のせいにしてみたり、
逆に人生の糧にしようと発想の転換を図ってみたり。
そういう「思い癖」は、
やがて無意識である潜在意識に流れ込み、
潜在意識はその癖に基づいた行動を取るよう、
脳みそに指示を出すのである。
かつて「行動」は、自分の意思によって
決定していると考えられていた。
たとえばジュースを飲もうと思ったから
冷蔵庫を開けるのであり、
電話を掛ける用事を思い出したから、
スマートフォンを手に取る、というように。
けれど実際はそうではなく、
飲み物を飲もうと思った1秒前には、
冷蔵庫を開けるための動作が始まり、
さらには、
飲み物を飲もうと思った10秒前に、
冷蔵庫を開ける動作に関係する細胞が
活発になることが判明したのである。
つまり私たちの行動は、
自分で意思決定する前に、
すでに潜在意識によって
決められているということなのだ。
ということは思い癖によって、
行動は無意識のうちに肯定的にも否定的にもなり、
平和的であったり暴力的であったりもする。
そしてそれに見合った結果が積み重なって、
それぞれの人生になるのだ。
自ら発する言葉や態度が自分の未来を創り、
それは決して誰のせいでもなく、
肯定の先には希望があり
否定の先端にあるのは絶望。
そのどちらを選択するかはいつだって自由なのだ。
私は幸せな人生を歩みたいから希望を選択する。
辛いこと、悲しいことがあったら大いに泣いて、
けれど再び前を向いて歩いていこうと思う。
思考がすべての始まりならば、
私はただひたすらに愛を思考し、
言葉が思考に響くなら、
私はただひたすらに、
ありがとうを繰り返そう。
自分の未来は自分のもの。
未来は自分で切り拓くものだから。
・・・つづく・・・
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