JUGEMテーマ:エッセイ
「生きとし生けるものは必ず死ぬんだよ。」
私はそのことを飼い猫から教わった。
猫の生き様を通して
命の儚さと大切さを教わったのである。
子供の頃から私の周りには常に猫がいて、
私を愛せない母の代わりに、
私を愛し、慰め、たくさんのことを教えてくれたのだ。
死んでしまいたいと何度も思った寂しい子供時代に、
猫だけは私のそばを片時も離れなかった。
そんな私は大人になった今でも
たくさんの猫に囲まれて生きている。
けれど猫の寿命はせいぜい十数年だ。
私がどんなに彼らを愛しても、
持って生まれた彼らの寿命を延ばすことはできないのである。
私は今まで何度も猫を見送り、
その度に悲しみに打ちひしがれて、
何度も何度も後を追ってしまいたいと思った。
生きることへの執着が薄い私には、
猫との別れは耐え難き苦しみなのである。
それでも私が今こうして生きているのは、
我が家に猫が絶え間なくやって来るから。
猫がどこからともなく庭に姿を現しては、
小さな命を剥き出しにして助けを求めるからだ。
「よし! この子が天寿を全うするまで
私が責任を持って面倒を見よう!」
私は毎度そう自分に誓って、
地に足をつけ直すのだ。
最後の1匹が天寿を全うするまで、
取り敢えずこの世に生き続けようと。
ところが私の誓いをこっそり聞いていた神様が、
「なぬ?なぬ?
猫がいなくなったらあやつは死んでしまうのか!」
と私を心配して、
我が家にごまんと猫を送り込んでしまったから、
私はなかなか後を追えないのである。
「なんてこった・・・、なんてこった・・・。
20匹はさすがにキツイぜ!」
私は神様にブツブツ文句を言いながら、
毎日髪の毛を振り乱して猫様のお世話をしているのである。
そして生きながらふと感じることは、
空がとっても美しいってこと、
りんごがこの上なく美味しいってこと、
どんなに嫌なことがあってもお腹は空くし、
お笑い芸人のネタがツボにはまれば
ついつい笑ってしまう、
いつのまにか楽しいことや美味しいことに紛れて、
辛い記憶が薄らいでいくっていうこと。
人生は思いのほかシンプルなのだ。
だから私は最後の猫が天寿を全うしても、
もう後を追いたいと思わないことにする。
生きとし生けるもの、いつか必ず死ぬのだから、
天寿を全うするその瞬間まで
美しい空を眺めて、
美味しいりんごを頬張って、
今生出会った愛するものたちに
思いを馳せる方が断然お得というものだ。
神様がどうして私に20匹の猫を授けたのか、
それはこの世はまんざらでもないってことに
気づく時間を与えたかったからなのだ。
生きとし生けるもの、いつか必ず死ぬのだから、
先を急ぐ必要なんてないんだよ。
今日を乗り越えれば明日はもっと
美味しいりんごが食べられるかもしれないよ、って。
だから私はちゃんと天寿を全うすることにします。
神様の許可を得てから天に還ることと致します。
天寿を全うすること、それは、
この世に生を受ける時、
神様と交わしたたった一つの約束事だから。
天寿を全うすること、それは、
この世に生を受ける時、
誰もが交わす神様とのたった一つの約束事。
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JUGEMテーマ:エッセイ
コロナウイルスが遂に日本でも猛威を振るい始めた。
昨夜の小池百合子東京都知事の記者会見を見ながら、
私は危機的状況がすぐそこまで差し迫っていることを悟ったのだった。
これは人間対ウイルスの戦いである。
しかも敵はどこにいるか分からない。
いや、もはやどこにでも存在しているのかもしれない。
そんな敵に立ち向かうためには、
手洗い、うがい、咳エチケットはもちろんのこと、
万が一菌に触れたとしても感染しないだけの強い体を作ることである。
今、私たちが持ち得る最高の武器は免疫力なのだ。
しかしそれはどこにも売っていない。
各自それぞれが自分の体を心から愛し、感謝し、
素直に耳を傾けることでしか手に入れられない代物なのである。
今、体が欲している栄養素は何なのか、
体は何をしてほしいのか、してほしくないのか・・・。
そういう体からのメッセージに真摯に向き合うことで、
免疫力は信じられないくらい高まるのである。
少し前に拡散された、
「白湯を飲むとコロナウイルスを予防できるらしい」という情報は、
後日専門家によって何の根拠もないと大バッシングされたけれど、
あの情報は正しいと私の体は叫んでいる。
白湯を飲み体を温めることで免疫力は高まり、
菌に侵されにくくなるからだ。
それはコロナウイルスとて同じことである。
また、私は新型コロナウイルスが発見される少し前から、
やたらと舞茸が食べたくなった。
それまでシメジやシイタケを好んで食べていたのに、
突然舞茸ばかりを食べるようになったのである。
そういうことは今までに何度もあり、
後になって合点がいくことが多々あったので、
私は今回も素直に従うことにしてみたのだった。
そして後日調べてみると、
舞茸は漢方にも用いられる医食同源の食材で、
免疫力を活性化し、抗がん作用、
抗HIV作用も確認されているということが分かった。
このように体はその時々で何を食べ、
何を為すべきかを教えてくれるのである。
そして私は今、柑橘類を毎日死ぬほど食べている。
これを何かのヒントにして頂けたら誠に幸いにて候。
さあ、一人でも多くの人が自ら最強の武器を手に入れて、
コロナウイルスを撃退しようではありませんか。
感染しないように生活することは私たち一人一人の義務なのです。
感染しないということは既に感染してしまった人を
守ることにもつながります。
オーバーシュートが起こればたちまち医療が崩壊し、
助かる命も助からなくなってしまうのだから。
だから私は声を大にして言います!
「今週末はお仕事以外の人は外出するのをやめましょう!」
東京都民の方のみならず、日本全国の皆さん、
今週末はお家で過ごそうではありませんか!
その行為は日本のためになります。
世界のためになります。
何なら世界平和のためです。
寂しいとかつまんないとか言わないで、
今週末はとにかくお家で過ごしましょう。
見えない敵をこれ以上拡散させてなるものか!
コロナなんかに負けてなるものか!
コロナウイルスなんかフンコロガシにコロコロ転がしてもらって、
肥溜めにポイしてもらうのが一番です。
さあ、みんなで手と手を取り合ってこの戦いに勝ち抜きましょう。
コロナコロコロあばよだぜーい!
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JUGEMテーマ:エッセイ
千葉県北東部に住んでいる私は、
この秋、台風15号で被災した。
私自身に怪我はなかったものの
家屋は一部損壊してしまったのだった。
屋根瓦が何枚か吹き飛び、
そのうちの一枚がベランダの床を貫通して穴が開き、
家をぐるりと取り囲んでいるブロック塀は
最大瞬間風速50m以上の風に煽られて数か所が崩れ、
庭木も何本か倒れてしまった。
私は生れて初めて台風を怖いと思ったのだった。
しかし同じ町内には倒木で家が押し潰されたり、
家の壁を風に丸ごと持っていかれたお宅もあったのだから、
我が家の被害はまだまだ軽い方だと言える。
最も深刻なのは辺り一帯の農家だった。
何カ月も手塩にかけて育ててきた収穫間際の落花生や里芋が
強風に根こそぎ倒された挙句、滝のような大雨に打ちつけられて
一瞬で水没してしまったのである。
この地球上で一番力を持っているのは自然なのだ。
そのことをすっかり忘れて生きている私たち人間に、
もしかしたら神様が喝を入れたのかもしれない。
それくらい自然の猛威は恐ろしかった。
しかし自然の猛威はそれだけでは終わらなったのである。
史上最大級の台風は数えきれないほどの電柱までもなぎ倒し、
千葉県を中心に最大64万軒にも及ぶ大規模停電を引き起こしたのだった。
私たちは文明の利器まで取り上げられてしまったのである。
こうして我が町は9月9日午前2時頃から9月18日午後8時半まで、
11日間に渡る停電生活を送ることになったのだ。
いいや、それだけではない。
我が町の水道は各家庭ごとに地下水を電動ポンプで汲み上げる仕組みなので、
悲しき哉、停電と同時に断水までしてしまったのである。
日暮れと共に懐中電灯の薄明りの中で過ごし、
停電から二日後に設置された給水所で配給されたお水を温めて、
シャワー代わりに浴びる生活だ。
そんな日々の中で肉体的に一番きつかったのは
台風通過後の3日間だった。
フェーン現象と相まって36度〜37度の暑さが続き、
夜も30度を超えたままだったから、
クーラーも扇風機もない地獄のような蒸し暑さの中で、
たくさんの人が熱中症で救急搬送されたのだった。
そして精神的に最も辛かったことは、
停電後5日間は食料がまともに手に入らなかったことである。
商店のほとんどが台風で被災した上に停電で店を開けられず、
多くの人が食料や生活必需品、ガソリンを探し求めてパニック状態となり、
信号機が作動しない道路では事故が多発した。
「被災するってこういうことなんだ・・・」
私は当然のように目の前にあった日常が消えたことを実感して、
ようやく自分が被災したことを理解したのだった。
日常を失うということはとてつもなく不自由で、
先を見通せない不安が胸いっぱいに広がる。
被災者はまさか自分がこうなるなんて
夢にも思っていなかったから、
未経験の事態に強烈なダメージを受けてしまうのだ。
幸い私は台風被害を受けずに済んだ遠方のツイッター仲間たちが
食べ物や飲み物、健康グッズ、モバイルバッテリー、
それにネコのご飯やトイレの砂までお送り下さったので、
どうにか踏ん張ることができたし、死ぬほど励まされもした。
私はその時の有難みを決して忘れはしない。
千葉はその後も台風19号や10月下旬の記録的大雨によって
再三甚大な被害を受けてしまったけれど、
この経験が糧となり今後も押し寄せてくるであろう自然災害を
うまく乗り越えられる知恵と覚悟がついた気がする。
地球温暖化が予想をはるかに超えるスピードで進んでいる今、
熱せられた海水は一年を通じてスーパー台風を発生させ、
その中心気圧は少なからず大地にも影響を与え、
地震や噴火を誘引することにもなろう。
つまり地球上どこにいても、
前代未聞の自然災害に遭遇する確率は極めて高いということを、
私は今回の経験で身をもって知ることができたのだ。
だからこそ今改めて思うのは、
私たち一人一人が地球の負担を少しでも減らすべく、
地球資源を大切にする、ゴミをなるべく出さない、
自然環境に配慮した素材を使う等を心掛けることが大切だということ。
そしていざという時のために自分で自分の身を守る覚悟を持つこと。
最低でも一週間は自力で生きていけるだけの
水と食料と知恵を用意し、
商品在庫が豊富な今のうちにブルーシートや養生テープ、
折り畳み式のウォータータンク(容量20ℓ)等を購入しておくこと。
大災害に見舞われたら助けなんかすぐには来ないだろうし、
食料や飲料水も3日経てば行政が必ず支給してくれる保証はないのだ。
そんな時は自分の持ち物と知恵を駆使して生き延びるよりほかないのである。
災害時に私が神アイテムだと思った一つが
ペットシーツ(紙オムツでも可)である。
窓枠から侵入する横殴りの雨や天井からの雨漏りを
素早くキャッチしてくれただけでなく、
簡易トイレにもなる優れものだったからだ。
ツイッター仲間に教えてもらった通りに
ビニール袋にペットシーツを2枚を敷いて実行してみたところ、
充分すぎるくらい簡易トイレの役目を果たしてくれたのである。
しかも市販の簡易トイレよりも遥かにコスパが良い!
私たち現代人はすっかり文明の利器バカと化してしまったけれど、
こうして様々な知恵を出し合うことで、
どんな困難にも立ち向かうことができる生きものでもあるのだ。
いざという時の「いざ」が来ないことが一番だけれど、
「いざ」はいつか必ずやって来る、そう実感した私は、
「さぁ、次はあなたの番ですよ!」
とすべての人に注意喚起したいのだ。
だからと言って必要以上に恐れることなく、
インチキな予言に翻弄されることもなく、
いざという時に慌てないようにしっかりと準備をして、
心を強く持って生きましょうと伝えたいのだ。
何でもかんでもポイポイ捨てずに、
自然をちゃんとリスペクトして、
生きる場所があることに感謝して。
何が何でも生きるんだ!と
意を決して生き抜きましょう。
この星があるから今日も笑うことができて、
この星があるから明日が来ることを当たり前だと思えて、
そんな愛しい地球にもっともっと感謝して、
今日も明日も精一杯生き抜きましょう。
ありがとう、ありがとう。
私たちの大切な地球。
ありがとう、ありがとう、
生きる機会を与えてくれて。
私は被災したおかげで、
たくさんのことに気づくことができのだった。
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JUGEMテーマ:エッセイ
今から二カ月ほど前に偶然見た、
世界的ディジュリドゥ奏者
GOMAさん(日本人)のドキュメンタリー番組に、
私は深く考えさせられたのだった。
彼は2009年11月、
高速道路で追突事故に遭ってから、
人生が一変してしまった人なのである。
事故当日の彼には目立った外傷はなく、
その日はむち打ち症と診断されて帰宅したのだが、
それ以降の彼は何かが違った。
家族との会話が噛み合わない。
記憶が断片的に消えている。
そしてその消えた記憶の中には、
自分がディジュリドゥ奏者だということも
含まれていたのだ。
後日病院で検査してみると、彼の脳は事故によって損傷し、
高次脳機能障害を発症していることが判明した。
言語、記憶、行為、学習、注意など、
脳の知的活動に障害が生じていたのである。
とりわけ彼を混乱させたのは、
事故の二日後に現れたある変化だった。
それまで絵をほとんど描いたことがない彼が、
なぜか絵を描かずにはいられない衝動に駆られたのだ。
そして彼はそれ以来、朝起きると絵筆を握り、
一日のほとんどを絵を描いて過ごすようになった。
脳裏に浮かぶイメージを点描画で表現し、
その緻密さと鮮やかな色彩は多方面から注目され、
いつしか彼は個展を開くまでになっていた。
事故前には想像もしなかったそんな自分の人生に、
彼はとまどい、今ももがき続けている。
幸い、彼の記憶から消えていた、
自分がディジュリドゥ奏者であるという現実は、
体が覚えていてくれたおかげで、
どうにか少しずつ取り戻すことができたのだった。
ある日アメリカに渡った彼は、
自分と同じような症状を持つ人々を
長年研究している博士に会い、
自分が後天性サヴァン症候群だったことを
やっと突き止めたのだ。
通常、サヴァン症候群とは、
自閉症スペクトラムなどの精神障害がある一方で、
突出した才能を持っている症状のことを指す。
GOMAさんの場合は事故で脳が損傷したことによって、
突如絵を描く才能が開花したのである。
しかしなぜ絵を描く才能だったのかは、
誰にも分からない。
ディジュリドゥを演奏しながら、
絵をひたすら描き続けるGOMAさん。
一つの人生を二度生きているようなその姿が、
私にはなんとなく、
前世と今生を同時に生きている人のように見えるのだ。
GOMAさんはもう二度と
事故前の自分に戻ることはできないけれど、
新しくやって来た才能は、
また別の幸せを実感させてくれるに違いない。
音楽とアート、
二つの才能を同時に開花させて生きる
ゴマさんの不思議な物語。
稀に見る人生を生きるGOMAさんは、
きっと選ばれし人だと私は思うのだ。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
熊本地震が発生してから今日で二年が経った。
震度7の二回の地震で50名の方が亡くなり、
震災関連死で203名の方が亡くなった。
人生が止まる人、人生が変わる人。
自然災害はいつでも手厳しい。
人生が止まっても、人生が変わっても、
誰のせいにもできない悲しみがある。
愛する人を見送る寂しさと、
愛する人を置いていく切なさは、
きっとどちらも同じ重さ。
だから慌てなくていいよ、
ゆっくりでいいよ。
その時がくるまで静かに待てばいい。
愛した人と自分の心が、
まだあの空でクロスしていても、
無理に剥がす必要なんてないんだよ。
だってかさぶたは自然に剥がれた方が、
傷口はしっかり治るもの。
まだ二年、まだ痛いもの、
まだまだ泣いていいんだもの。
まだ二年、悲しみが癒えるには、
まだまだ足りない月日だもの。
被災したすべての方に、
震災前と同じ笑顔が戻りますように。
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JUGEMテーマ:エッセイ
私の心の中にずっと住み続けているアニメがある。
それは子供の頃に見た「アルプスの少女ハイジ」だ。
大自然の中で繰り広げられる
ハイジの生き生きとした日常は、
幼かった私の心をいつでもワクワクさせてくれた。
ヤギ飼いの少年ペーターとの友情や、
小鳥のピッチー、子ヤギのユキちゃんたちとの触れ合い、
寡黙なおじいさんとハイジの心の交流、
そして都会のお嬢様クララとの出会い・・・。
ハイジが経験するすべての事柄が、
まるで自分の経験のように心を揺さぶったものだ。
それはテレビ画面が映し出すハイジの世界が、
あまりにもリアルだったからだろう。
登場人物の表情やしぐさ、
アルプスの山並みと木々たちの揺らめき、
干し草ベッドに至っては、
ふかふかな感じまで手に取るように伝わってきた。
そんなふうに丁寧に丁寧に描かれたアルプスの少女ハイジと、
「火垂るの墓」を手掛けた人物が同じだということを、
私はだいぶ後になってから知ったのだった。
けれどそこに共通する
心情豊かな映像のリアリティに、
私は妙に納得していた。
「火垂るの墓」もまた、
私にとっては忘れられない作品だったからだ。
高畑勲監督が生涯をかけて生み出した多くの作品は、
私にそうしたように、
きっと世界中の人々の心を動かしてきたことだろう。
二次元で描かれるアニメーションの世界が、
三次元以上の広がりに感じられるほど、
登場人物の心や風景がありありと生きているからだ。
高畑監督はもうこの世にはいないけれど、
監督の思いはこれからも作品の中に生き続けるだろう。
ささやかな幸せにも感謝して生きることが、
何より大切なんだよというメッセージ。
もう十分すぎるほどご自分の天命を全うし、
天国へ旅立たれた高畑勲様。
今までたくさんの感動をありがとうございました。
あなたが残してくれた作品たちは、
これからもずっとずっと人類の宝物なのです。
どうぞ安らかにお眠り下さい。
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JUGEMテーマ:エッセイ
「時間とは、
過去から未来に向かって一定方向に流れるもの。」
これが「時間」に対する世界共通の認識だろう。
けれど時空間理論には、
「現在・過去・未来が同じ時空に同時に存在する」
というブロック宇宙論というものがある。
これは一見SFチックではあるけれど、
「時間」を量子力学で捉えた場合、
それはあり得る話なのだ。
物質世界では時間は過去から未来へと流れ、
形あるものは必ず経年劣化するけれど、
量子というこの世の最小単位の状態では、
未来が過去に影響を与えたり、
天文学的な距離さえ飛び超えて、
二つの離れ離れの量子が
同じ振る舞いをすることが分かっている。
これを「量子もつれ」と言い、
この状態にある二つの量子は、
時空を飛び越えて瞬時に情報を伝達し合うのだ。
また、量子は想念とも深く関わっていて、
ある実験で多くの人が集まり、
世界平和を願って一斉に祈り始めると、
会場を包み込むように無数の量子が観測されたのである。
もしも人の想念が量子そのもの、または、
量子に多大な影響を与えられるものとするならば、
想念によって現在・過去・未来を自在に行き来したり、
どんなに遠く離れた場所にも瞬時に移動できるということなのだ。
それは過去に起こった出来事を変えることはできなくとも、
そこに付随する感情を修正することができるということだ。
たとえば過去に深く傷ついた出来事があるのなら、
その傷を現在の自分が完全に癒すことで、
過去の自分も同時に癒されるということである。
そして未来の自分が現在の自分に
情報を伝達することだってあり得るのだ。
それを「逆因果」と呼ぶ。
「原因は過去ではなく未来にある」として、
「今」はその結果なのだという考え方のこと。
たとえば未来の自分が歌手ならば、
子供の頃からなぜか歌うことが大好きで、
歌が上達するためのあらゆる努力をしてきただろうし、
もし未来の自分がイタリア人と結婚し、
イタリアに住んでいるならば、
現在の自分はどういうわけだかイタリア語を習い、
イタリアのことを猛勉強するだろう。
これが逆因果だ。
理由はよく分からないけれど、
なぜかそうしたくなる衝動がある場合、
それは未来という原因のせいかもしれないのである。
量子の世界では、
テレポーテーションもタイムトラベルも、
実際に起こっている現象なのだから、
逆因果という考えがあっても
ちっとも不思議ではないと私は思うのだ。
なぜなら私は一度だけ、たった一度だけ
実はこの目で見てしまったからなのである。
颯爽と歩く遠い未来の自分の姿を。
77歳になって尚、颯爽と歩く自分自身を、
私ははっきりと見てしまったのだ。
そして私はそうなるために、
今まで全力で生きてきたことに気づいたのだ。
あの日、自分の人生の原因を知ったことで、
私は安心して生きられるようになった気がする。
目の前にある一つ一つの出来事の理由が分かったことで、
安心して人生の流れに乗れるようになった気がする。
そして未来の自分がさらに輝けるように、
今を精一杯生きようと思えたのである。
もしかしたらあの日見かけた未来の私は、
過去の私にエールを送りに来たのかもしれない。
ならば私は未来の自分に向かって、
これからも全力で生きるしかないのである。
あんな風に颯爽と歩き続けるために。
あの日見た私自身が、
なりたい自分の姿で本当に良かった。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
NHKのニュース7を見ていたら、
殺伐とした事件・事故の間に挟まれて、
素敵な話題が一つキラリと光っていた。
それは尾関清子さんという88歳の女性が
立命館大学にて、
博士号を取得したというニュースだ。
尾関さんは30年以上にわたり、
日本各地で出土した縄文時代の布の編み方などについて、
研究し続けた人なのである。
そして日本の布に関する文化の起源と
特質をまとめた論文が、
このほど大学の審査で認められたのだ。
88歳での学位取得は、
現在のところ日本国内では最高齢とのこと。
この快挙にご本人は、
「感無量で、私の生涯の一番光栄な出来事」
と静かに語り、そっと涙を拭ったのだった。
そのお上品な所作と、
それとは対照的な意思の強さが、
私の胸をときめかせたのだ。
88歳と言えば米寿の祝いも過ぎて、
世間一般ではご老人と呼んで差し支えない年齢だろう。
けれど尾関さんは来る日も来る日も研究を積み重ね、
遂にその道の第一人者になったのである。
なんて素晴らしい生き方なんだろう。
人生という自分に割り当てられた時間を、
こんなにも意図的に使っているなんて。
これこそが「生きる=活きる」ということではないだろうか。
それは私が最もそうしたいと思う生き方である。
意図的に生きている人はとても美しい。
今に集中し、自分と深く繋がることで、
恐れという概念が消滅するからだ。
恐れのない生き方はパワフルで、
とてつもなくまばゆい。
その光こそが本来誰もが持っているはずの
生きる力なのだ。
誰もが持っているはずなのに、
人によってはすっかり忘れてしまっている光。
88歳の尾関さんが学位記授与式の際に
仰った言葉は、
「これからも研究に励んでいきたい。」
彼女は自分の限界などまるで設定していないのである。
そして最後に語った、
今の若者たちに伝えたいこと。
「何事もこれはと思ったら、
徹底的に関心を持って研究してもらいたいと感じている。」
88歳の博士が放った熱い思いに、
私は素敵に年齢を重ねるということの
神髄を見せて頂いたのだった。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私たちの意識には、
「顕在意識(表面意識)」と呼ばれる
普段、意識することのできる意識と、
「潜在意識(無意識)」という、
普段、自覚できない意識とがある。
そして二つの意識の間には、
「変性意識状態」というものがある。
これは「トランス状態」や「瞑想状態」、
「催眠状態」のように、
通常の覚醒している時とは異なる意識状態のことで、
潜在意識に最も影響を与えられる状態のことである。
この状態になると、
宇宙との一体感や至福感に包まれたり、
不思議な感覚や幻覚、幻聴を体験することもあるそうだ。
古代インドではこの変性意識状態を
「真の覚醒状態」として捉え、
その状態に入るための様々なテクニックが
研究されてきたということだ。
しかしながら実は誰もが、
一日に数回は変性意識状態に入っている。
夜眠りにつく時、通勤電車内で居眠りする時、
湯船に浸かってぼんやりしている時・・・etc。
心身が究極にリラックスしたり、
反対に極限まで追い詰められたり、
または尋常ではないほど集中力を発揮した時に、
変性意識状態に突入しやすくなるのだ。
この時に、将来なりたい自分や目標を宣言して、
潜在意識に上書きできれば、
未来はより良い方向へと変わっていくだろう。
私たちの意識の90%を占める潜在意識には、
問いに対するすべての答えがあり、
願望を叶えてくれる魔法の力があるのだから。
直感は潜在意識が与えてくれるもの。
変性意識はこちらから潜在意識に語りかける手段。
こうして常に潜在意識とキャッチボールできたなら、
きっと世界中に幸せな魔法使いが溢れるだろう。
まずは自分の願いを叶えて、
次に誰かの幸せのために願いを叶えて、
そうして魔法使いたちが杖を振るたびに、
世界は一歩ずつ平和に近づいていくのだ。
それが真の覚醒なのである。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
あの日から今日でちょうど7年が経つ。
14時46分に発生したマグニチュード9の地震で、
1万5,895名の方が亡くなり、
2,539名の方が未だ行方不明となっている。
私は当時も千葉県に住み、
生れて初めて震度6強を体験した。
地上15mほどの高架道路上にいた私は、
アスファルトがゴムのように波打つのを目撃し、
自分は道路もろとも地面へ落下して死ぬのだと、
パニック状態で右往左往したものだ。
千葉県内では津波などの被害で、
死者・行方不明者数は23名に上った。
震源地から遠く離れた場所でも
これほど恐ろしかったのだから、
宮城、岩手、福島の人々の恐怖は想像に余りある。
亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、
今なお復興を実感できない多くの被災者がいることを、
私たちは決して忘れてはならないと思う。
家や職場を失い、家族を失い、
生きる希望を失った人々が今も苦しんでいることを、
片時も忘れてはならないのだ。
地球という自然界に住まわせて頂いている以上、
私たちにいつ何が起こるか分からない。
それが7年前の東日本大震災であり、
23年前の阪神・淡路大震災なのだ。
そして今現在、
霧島連山・新燃岳が噴火している。
自然に逆らうことも、
未来を先読みして生きることもできない私たちに、
唯一できるのは自然を崇めて感謝すること。
自然の恵みを頂き、
生きものの命を頂いて生きていることを、
自覚して謙虚に生きること。
そうやって日々自然に向き合うことで、
少しの変化にも気づけるようになるだろう。
それを恐怖ではなく、
愛のメッセージとして受け取れるなら、
自分を最大限に守ることができるのだ。
あの日のまま時が止まってしまった
たくさんの御霊と被災者の方々に、
私は今日一日、心を寄り添わせて過ごそうと思う。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
生きるということは、
肉体を持って経験することである。
生まれた瞬間から死ぬまでの間、
良いことも悪いことも
ただひたすらに経験する。
そしてその経験をどう活かすかが、
人生にとってとても大切なのだ。
たとえば何かに失敗した時に、
ただ嘆き悲しむだけならば、
その経験は悲しい記憶でしかない。
失敗という経験が活きてくるのは、
その理由に気づいて改善した時だけなのだ。
この「気づき」こそが人生の学びなのである。
傷つくことを怖れて自分の殻に閉じこもっていれば、
経験が少ない分、傷つく機会は減るだろう。
けれど気づく機会も学ぶ機会も減るのだから、
それはただ「生存」しているに他ならない。
人生の学びとは、
自らの経験と気づきがあってこそ得られるものであり、
たとえ何百冊の本を読んだからといって、
たとえ大金を払ってセミナーに参加したからといって、
自発的に気づかない限り学びは存在しないのだ。
愛する人を失った悲しみ、
家や会社を失った絶望感は、
実際に経験した人にしか分からない。
傍から見ればそれは不幸でしかないだろう。
けれど葛藤をくり返しながらも乗り越えた時に、
その経験は大きな学びとなり得るのだ。
そしてそれができた人こそが、
他人に最も優しくなれるのである。
敢えて不幸を選択する必要はないけれど、
もしも辛い出来事が降りかかってきたならば、
その経験は必ずや宝になると信じることだ。
どんなに時間がかかっても、
どんなにくじけそうになっても、
自ら気づいて学んだことは、
紛れもなく人生を豊かにするのだから。
愛を表現すること、
目標を達成することの至福、
物事がうまくいかない時の悔しさ、
出会いと別れ、
花の香り、とろけるような果実の甘さ、
そのどれもが肉体あっての経験なのである。
生きるとは経験すること。
学びとは経験して気づくことなのだ。
せっかく肉体を持って生きているのだから、
私は五感の限りを尽くし、
いろんなことに気づいていたい。
そしてやがて迎える「死」という最後の経験を、
私は穏やかに迎えたいと思うのだ。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
2月9日に開幕した平昌オリンピックが
まもなく終わりを迎えようとしている。
私は夏季、冬季いずれのオリンピックも大好きだ。
国や考え方が違っても、
スポーツを通して世界が一つになっていく感じが
たまらなく好きなのだ。
だからオリンピック開幕が違づいてくると、
私は毎度ソワソワしてしまう。
ところが今回のオリンピックに限っては、
開幕直前にシラケてしまった。
北朝鮮が急遽参加を表明してみたり、
開会式のために集まったはずの各国首脳クラスが、
政治的な匂いをプンプンさせて会談していたからだ。
いつもなら食い入るように見つめる開幕セレモニーは、
録画後にサラサラっとかいつまみ、
本格的に競技が始まってからも、
ニュースで結果をちょこちょこっと見てお終いにしていた。
そんな私の心に火をつけたのが、
大会4日目に初めて日本にメダル(銅)をもたらした、
フリースタイルスキー男子モーグルの原大智選手だ。
競技後のインタビューで
「楽しかった」を連発する姿を見ているうちに、
世界のトップリーダーたちの思惑なんてどうでもよくなり、
そもそもいかなる権力をもってしても、
この感動に便乗することなどできないということに気づいたからだ。
その後の日本人選手の活躍は目覚ましく、
特にフィギュアスケート男子シングル
羽生結弦選手の大会2連覇は圧巻だった。
オリンピックの3カ月前に右足に大怪我を負い、
2カ月半もリンクから離れていたのに、
そのことを忘れてしまうほど彼の演技は完璧だった。
更にはスピードスケートの小平奈緒選手、高木美帆選手、
スキージャンプの高梨沙羅選手、
フィギュアスケートの宇野昌磨選手、
宮原知子選手、坂本花織選手たち、
出場したすべての選手が本当に素晴らしかった。
最後の最後には高木奈那選手が
新種目のマススタートで金メダルを、
カーリング女子がオリンピックで初のメダル(銅)を獲得し、
日本中を沸かせてくれた。
この日のために来る日も来る日も
苦しい練習を積み重ねてきた彼らのことを、
私は心から尊敬する。
何度つまづいても挑み続けてきたその姿勢は、
私たちにたくさんのことを教えてくれ、
忘れかけていた大切なことを思い出させてくれた。
夢は叶うよ。やればできるよ。
こんなにシンプルな人生の教訓を、
若きアスリートたちは体を張って示してくれたのだ。
そんな彼らに私はありったけの賛辞を贈りたい。
17日間灯り続けたオリンピックの灯は
まもなく消えてしまうけれど、
選手一人一人の輝きは、
これから先もずっとずっと私たちの心に灯り続けるだろう。
選手にとって人生そのものだったオリンピックがもうすぐ終わる。
数えきれないほどたくさんの感動を、
本当に本当にありがとう。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私たちが世の中を見る時、
どんな人もどんな場合にも、
必ず自分というレンズを通して見ている。
自分というレンズが透き通っていれば、
世の中はクリアに見えるし、
自分というレンズがくもっていれば、
見るものすべてが霞んでしまう。
自分というレンズは、
心の奥に進めば進むほど透明度が増してくるもの。
あるがままの自分、
真っ直ぐな自分に近づくほど、
レンズは一点のくもりなく透き通ってくる。
人はその場所を「本質」と呼ぶ。
自分の本質に到達できれば、
透明なレンズは
世の中をはっきりと見せてくれるだろう。
何が本物で何が偽物なのかすぐに分かるから、
戸惑いや不安を感じることはなくなる。
けれど本質から遠く離れてしまえば、
レンズはくもり世界はぼやけてしまうから、
たとえきれいなお花が咲いても、
ゴミにしか見えないかもしれない。
誰かが微笑んでくれたとしても、
怒った顔にしか見えないかもしれない。
本質から離れるということは、
真実を見失ってしまうことなのだ。
本質から離れるほどに、
人は不満や怒りを感じやすくなる。
もし世の中の本当の美しさを知りたいなら、
まずは自分自身の美しさを知り、
もし誰かの愛に触れたいのなら、
まずは自分自身を十分に愛することだ。
外界への入り口である
自分と深く関わらなければ、
世界もまた深く知ることはできないのだから。
私はいつでも透明なレンズで、
世の中の真実を見ていたい。
溢れる意見にぶれることなく、
そのままの花色を、本物の優しさを、
これからも自分自身で判断していきたい。
だから私は今日もまた、
あるがままの自分を生きるのだ。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
魂はもともと巨大なお餅のようなもの。
この世に生まれ落ちる時に、
みんながそれぞれ分けて頂くもの。
小さなお餅はその行き先々で、
あんころ餅やきな粉餅になるけれど、
何をまぶされても何で包まれても、
お餅はお餅、
別の何かになるわけじゃない。
やがて一つの人生が終わったら、
小さなお餅は巨大なお餅へと還っていく。
そしてそれぞれが得たたくさんの学びを、
魂全体で分かち合うのだ。
すべての命に魂が宿り、
それぞれの魂は繋がっている。
たとえ「あなた」と「私」、
「あの子」と「この子」に分かれていても、
魂はもともと一つの塊。
だからもし「あなた」が「私」を傷つけるなら、
「あなた」はとても傷つくだろう。
なぜなら「あなた」は「私」という自分を
傷つけることになるのだから。
「あなた」がもし「私」を愛するならば、
「あなた」はたくさんの愛を受け取るだろう。
「あなた」は「私」という自分を
愛することになるのだから。
愛を送れば愛が戻り、
憎しみを送れば憎しみが返ってくる。
それもこれもすべての理由は、
魂はすべて一つの塊だということ。
魂は永遠に存在するもの。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
その人の言動を見ていると、
その人のおおよその未来が見えてくる。
きっとこの先も幸せな人生を歩むだろう、とか、
このまま不幸な人生に突入していくだろう、とか。
そしてその予想はほぼ外れない。
それは私に特別な能力があるからではなく、
各々が発する言動の中にこそ、
各々の未来が隠れているからだ。
私たちには誰しも思い癖というものがある。
物事を肯定的に受け取ったり、
否定的に捉えたり、
自身に起こる出来事を人のせいにしてみたり、
逆に人生の糧にしようと発想の転換を図ってみたり。
そういう「思い癖」は、
やがて無意識である潜在意識に流れ込み、
潜在意識はその癖に基づいた行動を取るよう、
脳みそに指示を出すのである。
かつて「行動」は、自分の意思によって
決定していると考えられていた。
たとえばジュースを飲もうと思ったから
冷蔵庫を開けるのであり、
電話を掛ける用事を思い出したから、
スマートフォンを手に取る、というように。
けれど実際はそうではなく、
飲み物を飲もうと思った1秒前には、
冷蔵庫を開けるための動作が始まり、
さらには、
飲み物を飲もうと思った10秒前に、
冷蔵庫を開ける動作に関係する細胞が
活発になることが判明したのである。
つまり私たちの行動は、
自分で意思決定する前に、
すでに潜在意識によって
決められているということなのだ。
ということは思い癖によって、
行動は無意識のうちに肯定的にも否定的にもなり、
平和的であったり暴力的であったりもする。
そしてそれに見合った結果が積み重なって、
それぞれの人生になるのだ。
自ら発する言葉や態度が自分の未来を創り、
それは決して誰のせいでもなく、
肯定の先には希望があり
否定の先端にあるのは絶望。
そのどちらを選択するかはいつだって自由なのだ。
私は幸せな人生を歩みたいから希望を選択する。
辛いこと、悲しいことがあったら大いに泣いて、
けれど再び前を向いて歩いていこうと思う。
思考がすべての始まりならば、
私はただひたすらに愛を思考し、
言葉が思考に響くなら、
私はただひたすらに、
ありがとうを繰り返そう。
自分の未来は自分のもの。
未来は自分で切り拓くものだから。
・・・つづく・・・
]]>JUGEMテーマ:エッセイ
私はもうずいぶん前に離婚をし、
今は独身だ。
前夫のことが大嫌いだったわけではなく、
恐らく私には結婚というスタイルが、
まるで向いていなかったのだと思う。
結婚した途端に義父母や前夫の親戚から、
「こどもはまだなの?」
と言われる度に、
私は窮屈さを感じていた。
それまで子供が欲しいと思ったことがなかった私は、
どうやら結婚の意味をはき違えていたようだ。
私にとっての結婚は、
愛する人と共に人生を歩み、
互いを高め合うということであり、
子供のことはその流れの中で、
自然にたどり着く答えのようなものだと思っていた。
だからまずは出産しなさいと言われても、
私にはどうしてもピンと来なかった。
子供を産まなければ一人前じゃないと言われても、
私の心には何も響かなかった。
そんな私が当時何度も思ったことは、
もしも欲しくても子供ができない体だとしたら、
この人たちは何と言って詫びるのだろうと。
本人たちにとってなんてことはない一言でも、
言われた方は一生引きずる場合だってあるのだ。
たとえ世間でまかり通っていることでも、
それを誰にでも押し付ける必要はなくて、
そもそも世間でまかり通っていること自体が、
絶対に正しいとも限らない。
結婚も出産もしたい人がすればいいし、
結婚も出産もしないという選択もある。
結婚に息苦しさを感じるなら
離婚して自由になればいいし、
結婚生活が充実しているならば、
それを大切にすればいい。
自分の意思で自分を生きてこそ、
それが最高の人生となるのだ。
「結婚はしないの?」
「こどもはまだなの?」
「この先どうやって生きていくの?」
本当に幸せな人は、
他人にそういうことは言わない。
満たされている人は相手の満ちている部分を
見ようとするものだから。
結局前夫との結婚生活は
6年で卒業して今に至っているけれど、
私は断トツ今の自分の方が大好きだ。
自分の意思で自分の人生を精一杯に生きているからだ。
その姿はなんだか健気でとても愛しくなる。
そしてそう感じるようになってから、
私の中には寂しさがない。
自分自身としっかり繋がったことで、
心は完全に満たされたようなのだ。
さて、心が満タンになったところで、
そろそろ次の幕を開けるとしようか。
人生という舞台で唯一無二の私を、
ワクワクしながら演じ切るために。
人生は思っているほどそう長くはないものだから。
・・・つづく・・・
]]>
JUGEMテーマ:エッセイ
生まれたての赤ちゃんの魂は、
神様と同じ輝きを放っている。
なぜなら私たち一人一人の魂は、
すべて神様が分け与えて下さったものだから。
つまり私たちの魂は、
神様と同じ「全知全能」と「愛」であるということ。
けれどその輝きは
私たちが成長すると共にどんどん薄れ、
場合によっては
一筋の光りさえも見えなくなってしまう。
なぜなら怒り、悲しみ、恐怖など、
ネガティブな経験をするたびに、
本能的に鎧をまとって魂を防御してしまうから。
そしてまばゆい光りを内側に宿したまま、
いつしかその存在さえも忘れ去ってしまうのだ。
全知全能の光から切り離された瞬間に、
人は孤独に陥り、
右も左も分からなくなってしまうというのに。
そうなった時、
人は何かにすがりたくなるもの。
神秘的な宣伝文句に惹かれて宗教団体に入信したり、
霊能者に大金を支払って霊視や透視をしてもらったり。
けれどそれらは何かを気づくきっかけになったとしても、
自分が生きている理由にはたどり着けない。
その答えは自分の内側にしかないからだ。
その答えを得るためには、
魂に向き合うしかないのである。
長い時間をかけてびっしり纏った魂の鎧を、
長い時間をかけて一つ一つ丁寧に取り外し、
そうして再び出会ったまばゆい光の中にこそ、
本来あるべき自分の姿を見つけられるのだ。
同時に、自分を傷つけていたはずの経験が、
すべて幻だったことを知るだろう。
全知全能の光より強いものなんて、
この世に存在しないのだから。
「私の中には全知全能の光があるんだよ。」
自信を持ってそう自分に囁くことができたなら、
きっと誰もが魔法使いになって、
信じられない力を発揮するだろう。
答えはすべて自分の内側にあり、
それはいつでも愛に基づいているものだから。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私は毎晩ネコと近所の畑へお散歩をする。
それは天に向かって感謝の気持ちを捧げるためである。
私がそうしている間、
ネコはずっと私を見守ってくれている。
遮るものがない広い夜空を見上げながら、
その日一日の無事に感謝するのだ。
自分や愛する者たちの無事、
地球や大地、生きものたちの無事、
そしてその日に頂いたすべてのお恵みに、
心からありがとうと言う。
すると広大な夜空と私の間にあったはずの距離は
いつの間にか消滅し、
在るのはただひたすらに深い天への畏敬だ。
天はまるでそれに応えるかのように、
たびたび私にサインを送って下さる。
たとえば空一面がピカッと青く光ったり、
人工衛星が点滅しながら漆黒の空を横切ったり、
大きな流星が二つに割れながら頭上を通り過ぎたり。
そういう一つ一つを目の当たりにする度に、
私は天と繋がっていることを実感し、
得も言われぬ幸福感に包まれるのである。
これはまさしく私にとっての宗教なのだ。
直接大いなる存在と対話して、
あるべき自分の姿に戻り、
そうして壮大な宇宙と心が通じ合った時に、
知りたかったことの答えをすべて受け取れるのだ。
今日を無事に生きられたこと、
愛する存在と共にいられたこと、
そのどれもが奇跡の上に成り立つものだから、
私はこれからもずっとずっと
自分の言葉で感謝の気持ちを伝えていく。
天を仰ぎ見て受け取るサインは
この上なく美しく、
だから私は完全に自由に、
大いなる存在と語り合うのだ。
この上なく愛されていることを実感できる、
私と天界との大切な時間。
星は流れ、闇は輝き、
愛がひたすらに降り注ぐ。
・・・つづく・・・
]]>
JUGEMテーマ:エッセイ
一生に一度きりの成人式当日に、
あってはならないことが起きてしまった。
成人式用の振袖を販売及びレンタルしている会社が、
こともあろうに夜逃げしてしまったのだ。
被害者数や被害金額については、
まだ正式な発表はなされていないけれど、
恐らく相当な数になるだろう。
なぜこんなひどいことが起こるのだろう。
新成人ご本人やご両親はきっと、
この日のためにもう何年も前から
準備をしていたに違いない。
親御さんにしてみれば、
振袖を購入またはレンタルするために、
自分が欲しい物も我慢して、
コツコツと資金を貯蓄していたかもしれないし、
ご本人とて成人式当日に髪をアップにする為に、
夏の暑い盛りにも髪を伸ばし続けたりと、
いろんな準備をしてきたことだろう。
ほとんどの女の子がそんなふうに、
夢と希望に胸膨らませていた成人式が、
当日の朝になって、
突如悪夢に変わってしまったのだ。
「はれのひ」という会社が犯した罪は、
「倒産」の一言では済まされない話なのである。
行方知れずの会社経営者が、
今どこでどんな気持ちでいるかなんて知る由もないけれど、
自分がしたことが詐欺と同等であることだけは自覚してほしい。
被害に遭われた方々の証言によると、
この会社は既に昨年の秋頃には、
成人式当日の着付けについて曖昧な返答をしていたという。
もしその時点で顧客に何らかの事情説明を果たしていれば、
成人式に出席できないという最悪の事態だけは
防ぐことができたはずなのだ。
人間の世界で一番重い罪は「殺人」だ。
しかし魂の世界では「殺人」と「詐欺」は同レベルなのである。
いやむしろ詐欺の方が罪が重い場合さえあるだろう。
殺人とは他者の命とその後の人生を奪うことであり、
詐欺とは他者を欺いて財産上の利益を奪うこと。
殺人は決して許される行為ではないけれど、
そこに至る理由に情状酌量する余地があることもある。
けれど詐欺は他者の利益を奪うために、
最初から最後までずっと悪意を持って騙し続けるのだ。
それはたとえ命そのものを奪わなくとも、
夢と希望と信頼と、
時にはその後の人生さえも奪う行為なのである。
そこに酌むべき情状などあるだろうか。
「はれのひ」の社長は、
たとえ日本の法律で重い罪に問われなくても、
たくさんの若者とそのご家族から、
夢と希望と財産を奪ったという事実からは
永遠に逃れられはしない。
もしも人としての最低限の良心があるのなら、
せめて今すぐ姿を現して、
自分がしたことについての説明と、
心からの謝罪をするべきなのである。
2018年成人の日に、
自分のせいで多くの涙が流れたことを、
深く重く受け止めなくてはならないのである。
そして私は「はれのひ」事件のすべての被害者に、
心からのエールを送りたい。
こんなこともある、あんなこともある、
生きている間に起こるすべての出来事は、
いつか自分を成長させてくれるための
魔法のタネになるんだよと。
20年間無事に生きて迎えられた、
成人の日おめでとう。
・・・つづく・・・
]]>
JUGEMテーマ:エッセイ
新年あけましておめでとうございます。
今年も何卒宜しくお願い申し上げます。
というわけで、
無事に2018年がやって来た。
そのとたんに2017という数字が、
急に古びて感じてしまうのだから、
人間の感覚なんてとても曖昧だ。
その曖昧な感覚を奮い立たせて、
2017年を振り返った時に、
私の頭に真っ先に浮かぶのは、
ネコが3匹増えたということだ。
昨年のお盆に3匹のネコが、
我が家の庭にやって来たのだ。
女の子が1匹、男の子が2匹の3兄弟は、
こともあろうに、来て早々思春期を迎え、
そんな彼らの避妊去勢に、
私はアタフタ、バタバタと奔走し、
気づけば季節は秋になっていた。
もともと我が家には3匹のネコがいたのだけれど、
それが一気に倍増したのだから、
私はまるでネコ様のお世話係りと化したようだった。
しかし兄弟には元々お世話をしてくれていた
ネコ好きおばさんがいらしたようで、
一ヶ月ほど経った頃、
男の子1匹がそちらへお戻りになったのである。
それならネコは5匹じゃない?
と思われるかもしれないが、
実はこれで終わりではなかったのだ。
本格的な冬を前にした11月半ばのある朝に、
今度は生後二カ月くらいの子ネコが1匹、
庭にひょっこり現れたのである。
母ネコとはぐれたのか、
それとも意図的に誰かが置いていったのか、
今となっては知る由もなけれど、
とにかく子ネコは不安そうにピヨピヨ泣いて、
8月に来た2匹のネコに
ぴったりくっついて離れなくなってしまったのだ。
そして現在、私は6匹のネコのために、
朝から晩まで走り回っている。
特に遊び盛りのネコ3匹は、
容赦なく家中引っ掻き回して、
私を目一杯こき使うのである。
これが2017年に於ける私の一大トピックスだ。
そしてそれに次ぐ出来事はと言えば、
16年間お付き合いのあった近所の方と、
やっと決別できたということだろうか。
私よりも15歳年長のその女性は、
近所の誰にでも愛想が良く、
恐らく敵など存在するはずもないくらい、
いつでもどこでもどんな時でも、
満面の笑みを浮かべる人だった。
その方と深入りさえしなければ私もきっと、
「なんて親切な人なのだろう」としか
思わずに済んでいただろう。
けれどその方はなぜか私に対して、
16年間も興味を持ち続けたのである。
お子さんができなかったその方は、
事あるごとに、
「私、カオルさんのことをどうしても他人とは思えないの。」
「カオルさんのことがいつでも心配で気になって仕方がないの。」
そう言って、茶菓子を片手に頻繁に私の家を訪ねるのだった。
私の仕事が休みであれば一日に複数回、
仕事の日であれば、帰宅した途端に家の呼び鈴が鳴るのだ。
私は自分の生活のペースが崩される度に、
強烈なストレスを感じていたのだけれど、
この方は私のことを心配して来てくれているんだ、
そう自分に何度も言い聞かせて、
気づけば16年も我慢してしまったのだった。
ところが昨年の8月に、
私の元に新しいネコたちがやって来ると、
その方はそれまで以上に家を尋ねるようになり、
自分の愚痴を何時間も話し続けるようになったのである。
ただでさえネコのことで手いっぱいの私にはお構いなしに、
自分の話ばかりを延々と話して聞かせるのだ。
その時私はやっと自分の感情に気づいたのである。
私はこの人が苦手なのだと。
そして実は彼女は私のことが心配なのではなく、
自分が誰かに心配されたいだけなのだということ、
今まで必要以上に親切にしてくれたのは、
私にNOと言わせないためであり、
そうやって私をコントロールすることで、
自分の寂しさを埋めていたのだということにも、
私は気づいてしまったのである。
私は自分がイヤだと思うことを、
16年も我慢したことを心から悔いてしまった。
それから数日後の午後9時頃、
いつものようにお茶菓子を持ち
唐突にやって来た彼女に対し、
私は遂にはっきりと言ったのである。
「もう食べ物は頂かなくても大丈夫ですよ。
今まで頂いたものが食べきれずに残っていますから。」
つまりそれは彼女にとって、
私の家に来る大義名分がなくなるということだ。
案の定彼女は怒り狂った。
いつも浮かべている満面の笑みとは程遠い鬼の形相で、
私にまくしたてたのだ。
「あらー! どうしてそんなこと言うの?
ずいぶんじゃない! ねえ、どうして? どうしてなの?」
初めて自分にたてついた私に、
顔を真っ赤にして声を荒げていた。
けれど何を言われてもこれでお終い。
私はもう二度と自分のことを裏切るつもりはないし、
そもそも他人の寂しさは他人には救えないのである。
そして私はその日以来、
やっと安心してトイレにも、
お風呂にも入れるようになったし、
雨の日の朝寝坊も心置きなくできるようになった。
なぜならもう二度と、
彼女のペースで日に何度も呼び鈴が鳴ることがないからだ。
2017年を振り返った時に、
私の頭に浮かぶ二つのトピックス。
それを言葉にすると、
「出会い」と「決別」なのである。
ネコたちとの「出会い」はたくさんの幸せを、
嫌なこととの「決別」もまた、
私に解放と言う名の幸せを与えてくれたのだった。
さぁて、2018年はどんな年になることやら。
一番心掛けたいこととして、
まずは自分らしくいることが、
何より大切だと思う今日この頃。
皆さんにとっての2018年もまた、
益々実り多きことを願う新春の夜。
まーるいお月様がこの上なく大きい。
・・・つづく・・・
]]>
JUGEMテーマ:エッセイ
「龍は本当にいるのだろうか?」
もしも誰かにそう尋ねられたら、
私は迷わず首を縦に振る。
なぜならこの目でたった一度だけ、
龍を見たことがあるからだ。
その瞬間は突然やって来た。
今から20年ほど前のある晩、
当時飼っていた犬の散歩の最中に、
龍が私の目の前に現れたのだ。
いや、ついうっかり私に見つかっちゃった、
と言った方が、
表現としては正しいのかもしれない。
犬を連れてぼんやり歩いていた私の目の前を、
巨大な龍がスイスイと泳ぐように、
右から左へと横切っていったのだ。
その姿をたまたま私の後ろからやって来ていた
車のヘッドライトが、
バッチリと浮かび上がらせてしまったのである。
人はあまりにも驚きすぎると
思考回路が遮断されるのかもしれない。
体調10m以上はある生きものが、
突如目の前に現れた私は、
「あ、怪獣だ・・・」
そう静かに心の中でつぶやいて、
何事もなかったかのように、
再び犬を連れて歩き出したのである。
いつものお散歩コースをぐるりと回り、
家にたどり着く頃になってようやく私は、
ついさっき見たものが龍であることを理解したのだった。
そしてその途端に私の体は、
ガクガクと音を立てて震え出したのだ。
あれから約20年、
私がこの出来事を人に話したのはごく僅かだ。
初めて人に話せたのは、
龍を見てから一ヶ月以上が過ぎていた。
もしもこのことを誰彼構わず言ったとしたら、
信じてもらえないどころか、
きっと痛い目に遭うだろう、
私は心のどこかでそう思っていたのかもしれない。
ところがここ最近「龍」という言葉が、
度々耳に入って来るようになった。
実在する生きものではないにもかかわらず、
多くの人々が龍を感じている。
これは単なる偶然ではなく、
そろそろそういう時期に突入したのだと、
私には思えてならない。
龍は自然現象を司る自然霊の一つだ。
自然霊は通常はエネルギー体として、
私たちが暮らす次元と並行して存在している。
だから何かの拍子に共鳴すれば、
いつでもそのエネルギーを感じることができるし、
場合によっては視覚的に捉えることだってできる。
そんな自然霊である龍を感じるということは、
より多くの人々が自然に目を向け、
地球に深い愛情を抱き始めているということではないだろうか。
このまま文明が発達し自然が失われれば、
地球環境は大きく様変わりしてしまい、
人類も動植物も生きてはいけない。
日に日に大きくなる地球の悲しみが、
決してそうならないようにと、
人々の心を目覚めさせ、
自然霊と共鳴させているような気がするのだ。
目に見える世界と目に見えない世界が手を取り合って、
壊れかけた地球を守っている今、
あの日の龍は今も私の頭上を飛んでいる。
これ以上地球の悲しい歌声が大きくならないようにと、
縦横無尽に大空を駆け巡っている。
どうか一人でも多くの心が
自然と共鳴しますようにと祈らずにはいられない。
地球は尊い自然界の上に成り立つ
それはそれは美しい星なのだから。
・・・つづく・・・
]]>
JUGEMテーマ:エッセイ
オンナたるもの、自分の意見など言ってはならぬ。
オンナたるもの、亭主の後ろを三歩下がって歩くものだ。
こんな言葉がまかり通っていた時代に生まれていたら、
私は一日でアウトだ。
もちろんそこによんどころない事情があるのであれば、
それもやぶさかでない。
たとえば女性があまりにも賢すぎて
男性の足を引っ張ってしまうから、
ご意見はほどほどに、とか、
今、砂嵐が吹き荒れているので、
男性の後ろを歩いた方が顔が汚れなくて済みますよとか。
しかしただオンナだからという理由だけでそんなことを言われたら、
「おーおー、上等じゃねーか!」と叫んで、
私は間違いなくちゃぶ台をひっくり返すだろう。
正当な理由など1ミリもないくせに、
なーにえっらそうなこと言ってやがるんだ、このクソジジー!
と叫びながら、
私は血管を何本も破裂させてそのまま死んでしまうかもしれない。
だから明治、大正、昭和初期に生きていた女性は、
本当に我慢強いと思うのだ。
明治31年に大日本帝国憲法で規定された「家制度」は、
戸主である父または長男の許可なく、
結婚も就職できないのだから。
それは女性にとって悲劇の何ものでもない。
父または長男が決めた相手と祝言を上げ、
たとえ生理的に好きになれなくても、
その人の子を作り、産まねばならず、
しかも一生仕えるのだ。
一体何の罰ゲームなんだろう・・・、
と私なら思ってしまうかもしれない。
そんないかれポンチ極まりない制度は、
なんと昭和22年まで続いたのである。
女性は49年間も忍耐を強いられたのだ。
制度が廃止されてから今年でちょうど70年。
あれから女性は自由になっただろうか。
自分のやりたいことは何でもできるようになり、
成人していればどんな相手とも
家族の承諾なしに入籍できる。
そんな時代に生きている今、
女性はみんな自由なのだろうか。
本当のことを言えば70年前にも、
自分のやりたいことを貫いていた女性がいる。
今年104歳になった現役の書家、篠田桃紅さんもそうだ。
生涯独身を貫き、今でも作品を発表し続けている。
84歳のオノ・ヨーコさんとて、
当時の日本ではなかなか理解されなかった前衛アートを
屈せずに発表し続け物議を醸した。
本気でやりたいことは何が何でもやるものなんだ。
先人たちの生き方に学ぶ時、私は心からそう思うのだ。
たとえどんな時代であっても、
男であっても女であっても。
こんなに自由な今、
それでも年のせいにしてみたり、
環境のせいにして何かを諦める人の方が、
よほど過去の遺物である家制度に縛られているような気がする。
せっかくこの世に生を受けた以上、
私なら納得のいく生き方をしていたい。
我慢に我慢を重ねてそつなく生きるより、
本来あるべき姿で悔いなく生きたい。
だからオンナたるものああせよ、こうせよと言われても、
私はちっとも耳を貸す気はないし、
かと言ってオトコと張り合うつもりもない。
今この瞬間にどれだけ自分らしくいられるかが
何より重要だからだ。
オトコだろうがオンナだろうが、
自分を貫いている人が最もカッコいい。
最もカッコいいまま死ねるなら、
こんなに素敵なことはないのだ。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
誠に有難いことに、
私には雨風をしのげる家があり、
田舎暮らしに欠かせない車もあり、
そのうえ健康だ。
寒い冬を快適に過ごすための暖房器具も、
ふかふかの布団もセーターもある。
私の生活は何不自由なく、
前へ向かって進んでいる。
そんな恵まれた毎日に、
私はとても感謝しているけれど、
そのうちのどれ一つをとってみても、
実は完全なる自分の所有物ではないことも知っている。
私がこの世を去る時に、
あの世に持ち帰れるものなんて何一つなく、
大好きな自分の体でさえも、
神様から一時的にお借りしているものなのだ。
だから私は「与える」という言葉の傲慢に、
時々耳を塞ぎたくなる。
神様からお借りしているものを、
どうやって他人に与えることができようと。
もしも裕福な人が困っている人に
何かを差し出したとしても、
それは与えるのではなく共有するということ。
やがて人は天寿を全うすれば、
魂という本質になり、
生きている間に得た経験だけを携えて、
故郷へと帰っていく。
それは人として生きることの
最大の目的を物語っている。
私たちはきらびやかな宝石を得るために
この場所に生まれたのではなく、
様々な経験を通して魂が成長するために、
今ここにこうして生きているのだ。
ならば与えるという傲慢ではなく、
共有するという謙虚さの中に生きながら、
魂の成長を感じていたいものである。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私は今年の2月に生れて初めての体験をした。
夜中、寝ていた私の体に、
突如、高圧電流が流されたのである。(vol.82)
そしてそれから4か月後、
今度は全身に磁気を浴びたのだった。(vol.153)
今年に入ってから、
私の体には次々と不思議なことが起こった。
それはまるで未知なる方法で、
体をメンテナンスして頂いているような感覚なのだ。
高圧電流は2月以降、時々体に流されてはいるものの、
最初の時よりもパワーはかなり抑えられ、
その衝撃にも慣れてきたころだった。
ところが12月1日の未明に、
私は再びパワー全開の電流を流されたのである。
午前1時半過ぎに眠りに落ちた瞬間に、
強烈な電流が心臓のあたりに撃ち込まれ、
そのまま全身に広がっていったのだ。
ウーッ、ウーッ、とうめき声を上げながら、
その衝撃に耐えるのが精いっぱいである。
体がこれでもかというくらいに振動し、
魂が体からはみ出しそうになる。
もうこれ以上は無理、そう思った時だった。
私は助けを求めるように
「天照大御神ー!」と心の中で叫んでいたのだ。
(ちなみに前回は不動明王の真言を何度も唱えていた。)
すると右側の耳元で、
とても美しい女性の笑い声と囁きが聞こえ、
左側の耳元では軽快なリズムに合わせて、
男性の歌声が響き始めたのだ。
それは2月の時の状況によく似ていたけれど、
言葉はまるで違っていた。
前回は恐らくヒンディー語で、
今回は今までに聞いたことのない、
とても不思議な発音の言葉だった。
やがて電流がピタリと止まると、
私の体は自由を取り戻し、
私の耳元は静けさを取り戻していた。
そしてさっきまで聞こえていた囁きの意味は、
電流を流される二日前に受け取った、
言葉の反復であることを私は理解したのだった。
「体をケアしなさい。体を守りなさい。
これから来る時代のために体を準備しておきなさい。」
つまり今、地球の変化に合わせて、
脳が体をカスタマイズしてくれている最中なのだから、
それがうまく執り行われるように、
体内の不純物を取り除いておきなさいということらしい。
私たちは現在パソコンで言う所の
更新プログラムのインストール中なのである。
刻々と変化する環境に対応するために、
古いプログラムを新しいものに置き換えてもらっているのだ。
これをやらないと動作が鈍くなり、
ウィルスに感染したり、ハッキングされたり、
最終的にはパソコン(人間)としての
機能が果たせなくなってしまうのである。
更新プログラムのインストールは、
太古の昔から何度も何度も繰り返されてきたことで、
そうやって様々な生きものたちが進化してきたのである。
これからも美しい地球で生きていけるように、
細胞の一つ一つが進化の途中にある今、
変化を恐れるのではなく、
ただ進化を楽しめばいいのだと思う。
いらなくなった古い概念はどんどん手離して、
新しい自分を受け入れればいいだけなのだ。
これからきっとたくさんの人が、
自分の変化を実感していくのだろう。
もしかしたら今夜寝ている間にも、
高圧電流が体を走るかもしれない。
もしそうなったらそうなったで、
それもまた楽しんでしまえばいいことなのだ。
耳元で響く軽快なリズムは、
癖になるほどの素晴らしさなのだから。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私の人生の主人公は私だ。
誰かが私の人生を生きることはできないし、
私が誰かの人生の主役になることもできない。
人の数だけ人生があり、
すべて違うドラマの中で、
誰もが主人公として生きている。
自分の人生に責任を持つ限り、
私はどうやって生きてもいいと思う。
やりたいことがあるのなら、
やるための理由を並べ立て、
仕事も結婚も夢も希望も、
全部自分で決めればいい。
選んだ道が少し独特で、
他人から理解されにくくても、
それが自分の本来あるべき姿なら、
最も強い力を発揮できるだろう。
自分を活かして生きることは、
生を受けたことへの最大の恩返し。
生きて活動することこそが、
人として生まれ出でた最大の理由なのだから。
もし自分の活かし方が分からないなら、
静かに問いかけてみればいい。
自分は何がしたいのだろう、
何の役に立てるのだろう、と。
愛に基づいた問いかけには、
必ず愛ある答えが返ってくるもの。
自分の人生は紛れもなく、
自分の選択が創り上げるもの。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
事あるごとに「ゆるす」という言葉を謳うある宗教が、
私はとてつもなく苦手だった。
何をされても「ゆるす」だなんて、
どうしてそんなことが言えのだろうと。
たとえば誰かに家族を殺されても、
犯人を許せということだろうか。
たとえば見知らぬ誰かにレイプされても、
「いいのよ、べつに。」
と笑って許さなくてはならないのだろうか。
そう考えれば考えるほど、
その巨大な宗教団体が嘘くさく感じて仕方なかった。
そんなある日、たまたま付けたテレビの中で、
アフリカのツチ族とフツ族の争いで、
多くの村人が命を落としたことを取り上げていた。
その争いで幼い息子を目の前で殺された若い母親が、
インタビューにこう答えていた。
ある日自分の幼馴染の男が突然家に入ってくると、
刃物を息子に突き立てて殺したのだと。
私はその母親の悲しみを思い、
涙を流さずにはいられなかった。
ところが彼女の次の言葉に私は絶句してしまったのである。
「私はそれからすぐに、
息子を殺したその幼馴染と再婚したの。
私は宗教の教えに従って彼を許すことにしたのよ。」
若い母親はまるで聖女のような顔をしてそう言ったのだ。
だから私はこの宗教が苦手なんだ・・・。
私にはその母親の気持ちが
まったく理解できなかった。
そんなある日、調べものをしていると、
「赦す(ゆるす)」という言葉に行き当たった。
意味を見ると、「罪などをなしとする」「放免する」とあった。
そこでもう一方の「許す」を調べてみると、
「何かをすることを認める」「許可する」となっていた。
二つの言葉は同じようでいてまるで違っていたのである。
私は堰を切ったように、
その宗教団体の言う「ゆるす」を調べてみた。
すると謳っていたのは「赦す」であり、
罪を大目に見たり、
罪を見て見ぬふりをすることではなく、
相手を罰したいという欲求を手離して、
すべてを神のみ手にゆだねる、
ということだったのだ。
長い長い間、喉の奥に詰まっていたものが、
ストンと一気に流れ落ちたような感覚を覚え、
そして私は納得したのである。
罪が罪として天へ上るなら、
傷つけられた心の存在も、
同時に天は受け止めてくれるはずだと。
もしも誰かに家族を殺されても、
もしも誰かにレイプされても、
犯人は決して犯した罪から逃れることはできず、
天の裁きを待つ間、
傷つけられた側の心と体には、
天の癒やしが与えられるのだと。
「赦す」と「許す」の違いを知ったことで、
私の心は癒され、
とても落ち着いたように思う。
本当の意味を知ることは、
こんなにも大切なことなのだ。
さて、そこで一つ気になるのが、
アフリカで幼子を殺されたあの女性のことである。
彼女の話を聞く限り、
彼女の「ゆるす」は「許す」、
つまり「大目に見る」ではなかっただろうか。
我が子を殺害された母親が犯人と愛し合える状況は、
「赦す」こととは程遠いように感じてしまうから。
敬虔な信者でも意味を誤解しかねない
「ゆるす」という言葉は、
それほど奥が深いと言える。
「赦す」とは、
たとえ激しく傷つけられても、
相手を裁くのは人間ではなく、
天の役割であることを理解すること。
宗教の信者であるなしに関わらず、
すべての人間が「赦す」ことを実践できたなら、
この地球上から戦争という愚かが、
もしかしたら消滅するのかもしれない。
裁きは天の役割であり、
憎しみや悲しみを手放すことが人の役割。
手放すことができたときにこそ、
本当の癒しは起きるのだろう。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
「神様はどこにいるの?」
と聞かれたら、
「神様はどこにでもいるよ。」
と私は答える。
「ほら、あそこの野草にも、
電線に留まっている小鳥たちにも、
すべての命に神は宿り、
数えきれない奇跡を見せてくれているんだよ」と。
たとえ神様を信じていなくても、
命の背後には必ず大きな力が働いていて、
一つ一つすべての命が、
偉大な力と繋がっている。
だから本当は神様を探す必要なんてないのだ。
あらゆる場所に神様はいて、
「生きる」という奇跡を見せてくれているのだから。
遠いところへ行かなくたって、
たくさんお金を払わなくたって、
神様にはいつでも会えるのだ。
一人一人が一つ一つの神に気づけたら、
すべての命はただ愛しいだけの存在となり、
無駄な命なんて一つもないことを、
きっと思い知るだろう。
あなたの中にも私の中にも神様がいて、
すべては一つの力で繋がっている。
誰に教えられなくても愛し方を知っているし、
知らない人のために祈ることだってできる。
だから私は野草をくまなく見つめ、
ミツバチの羽音に耳を澄まそう。
命の向こうの神様と、
いつでも話がしたいから。
「私を愛してくれてありがとう。」
その一言を何度でも伝えたいから。
そして私は溢れる愛を、
すべての命と分かち合うのだ。
ほら、ここにも、あそこにも、
神様みーつけた!
・・・つづく・・・
]]>JUGEMテーマ:エッセイ
連日報道されている神奈川県座間市の殺人事件は、
その猟奇性に背筋が凍る。
しかし事の発端となったTwitterの
「#自殺募集」という文言に、
私はもっと凍りついてしまうのだ。
今の若い人たちはなぜ、
いとも簡単に死を選ぼうとするのだろう。
どうして見ず知らずの人なんかと一緒に
この世を去ろうとするのだろう。
少子高齢化社会の中で、
ただでさえ貴重な若者たちが、
自ら死を選択しなければならないほど、
今の日本は希望を見出しにくいのだろうか。
それとは対照的に元気なのが、
現役をリタイアした高齢者たちだ。
「まだまだ生きるぞ、100までも!」と息巻く姿を、
私はテレビや街中で度々見かける。
死にたい若者たちと、
長生きしたいお年寄りたちの目には、
未来の映り方が違っているのだろうか。
若い人たちが死にたがり、
高齢者がまだまだ生きたいと言う日本は、
一体どんな国なのだろう。
「#自殺募集」という文言に、
若者が集まる今の日本は、
もしかしたら想像以上に寂しい国なのかもしれない。
若者たちが明るい未来を描けるような、
そんな日本であってほしい。
知らない人と死ななくても済むような、
そんな未来であってほしい。
「本当は死にたいんじゃなくて寂しいんだよ」
若者たちのそんな声が聞こえてくるようだ・・・。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
スピリチュアルを語る人の中には、
「肉体は魂の一時的な乗り物に過ぎず、
執着する必要などない。
本当に大切なのは永遠に続く魂だ。」
と言う人がいる。
もちろん魂も大切だ。
しかし私はそのような文言を見たり聞いたりするたびに、
そう主張する人の肉体が可哀そうで仕方なくなるのだ。
生命が母体に宿った瞬間から今日まで、
肉体はすべての時間を命の存続のため、
一秒も休むことなく働き続けているからだ。
体は私たちが意識しないところで心臓を動かし、
呼吸を繰り返し、感情を作り出して身を守り、
体内に入り込んだ異物やウィルスを排除してくれている。
そのような自分の体を一時的な乗り物だと捉えるならば、
この地球に暮らすことの何に感謝できるというのだろう。
肉体があるからこそ命の終わりを知り、
愛する人の温もりや尊さ、
その存在の大切さに気づくことができるのだ。
時間という「縛り」があるからこそ、
限界を悟り挫折に涙し、
悲しみや悔しさを経験することによって、
他人の痛みが理解できるようになるのだ。
地球に暮らすということはそういうことなのである。
肉体を持って初めて経験できる事柄は、
魂として「永遠の海」を泳ぐだけでは
決して得られないものなのだ。
そして実は肉体の中には、
悟りのきっかけと呼べるようなものが隠れているのである
生きる上で最も重要な「脳」という器官の中に、
神秘体験と直結している部分がいくつもあるのだ。
たとえば脳の後部にある「角回」という部分を刺激すると、
被験者は背後に存在する幻影を感じたり、
体から抜け出して天上にいるような感覚を味わう。
また、耳の上部の奥のあたりを刺激すると、
被験者は臨死体験者と同じような風景を見るのである。
日本人であれば三途の川やお花畑、
西洋人であれば天使や光のトンネルといったように。
私はこれらの事実を魂の存在の否定ではなく、
魂と肉体がいかに強く結びついているかの証明だと思っている。
地球上で三次元的に生きながら悟りの境地に達する鍵は、
脳全体を活性化させることなのではないだろうかと。
そうすることで通常では捉えられない色や音を受け取ったり、
宇宙への理解力が増したり、
超人的なパワーを発揮できるようになるのではないかと。
人間の脳についてはまだまだ解明されていないことが多く、
故に私には宇宙に匹敵するほどの奇跡に感じられるのである。
だから人間として生きている限り、
奇跡の肉体を纏えることを誇りに思い、
生きている間にたくさんの感覚を体験しようと思うのだ。
私にとっての肉体は、魂の一時的な乗り物なんかではなく、
魂を成長させてくれる貴重な同志に他ならないからだ。
さて、脳細胞が一つ一つ目覚めていくたびに、
私は一体何を悟り、どんな奇跡を体験するのだろう。
考えるだけでワクワクする。
しかしその前にまず言いたい言葉があるのである。
自分の体に「ありがとう」という一言を。
肉体を持って生きていられることに、
心からのありがとうをふと言いたくなった。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
明日は衆議院議員総選挙投票日だ。
私には特に支持している政党はなく、
その時々で、
「この人(政党)の言っていることはまっとうだな」
と感じる立候補者(政党)に投票している。
そして昨晩私は期日前投票を済ませてきた。
理由は投票日当日に悪天候が予想されているからだ。
すると同じような考えの人が大勢いて、
昨晩の期日前投票所は、
さながら投票日当日のような賑わいを見せていた。
それほど今回の総選挙は
国民が注目しているということなのだ。
森友加計問題、憲法改正議論、
消費税引き上げの時期と使途変更、
臨時国会冒頭の衆議院解散等、
与党は次から次へと私たち国民の心を翻弄し、
政治に無関心の人々さえも揺り動かすインパクトを与えたのだ。
そして野党もまた然り。
今回の選挙戦に向けて、
目まぐるしく変わるドラマチックな展開に、
私はぶっちゃけ度肝を抜かれたのだった。
特に彗星の如く現れた小池百合子党首が、
日本の未来を変えてくれる救世主に見えたかと思えば、
「さらさらない」発言で人気急降下。
どんなに言っていることが正しくても、
言葉の選び方で人生はこんなにも激変するのだと、
彼女は身を以て国民に教えてくれたのではないだろうか。
そんなこんなでこれほどまでに、
興味をそそられた選挙を私は覚えていない。
選挙権年齢が18歳に引き下げられてから
初めての衆院選ということもあり、
国民が一体どのような審判を下すのか、
結果が待ち遠しくてたまらない私なのである。
たとえどのような結果になろうとも、
国民の未来がかかっていることに間違いはないのだから、
良いことは良い、ダメなものはダメ!と
発信することがとても大切なのだ。
国民一人一人の意思を示すためにも、
まずは投票するに限るのである。
そして政治家たちは思い知るのだ。
高い報酬を支払って政治家を雇っているのは、
まぎれもなく私たち国民だということを。
国民に選ばれなければ、
彼らはどんなことをしたって政治家にはなれないのだから。
投票するということはそういうことなのだ。
さあ、今からでも遅くはない。
みんなで投票所へ行こう!!
・・・つづく・・・
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もう何年も前の話である。
まだ赤ちゃんと言っても過言ではない程小さな女の子が、
ショッピングセンターでほんの一瞬母親が目を離したすきに、
幼児性愛者によって連れ去られ、
数日後に遺体で発見されるという痛ましい事件があった。
直後に報道番組のリポーターが、
同じ年頃の子供を持つ母親たちに心情を尋ねたところ、
「うちの子だったらと思うとゾッとする」とか、
「これからはもっと防犯に力を入れてほしい」
という意見が多く出た。
そう思うのは至極もっともなことである。
しかしそういう発言をした人の口からは最後まで、
遺族の悲しみに寄り添うコメントが出てこなかったのだ。
私はそのことに強い衝撃を覚えたのだった。
それを結婚したばかりの友人に話したところ、
「あたりまえじゃん。
誰だって人のことよりまずは自分の家族だよ。」
とけんもほろろに返されてしまったのだ。
もちろん誰だって自分の家族は大切だ。
しかし世の中で不幸が起きた時に、
あー、自分じゃなくてよかった、
あー、自分の家族じゃなくてよかったと思うだけならば、
そもそも共感機能なんて必要ないではないかと
当時の私は思ったものだ。
お腹を痛めて産んだ我が子が、
無残に殺された悲しみや怒りに最も共感できるのは、
同じ母親という立場の人ではないだろうか。
殺されたのが我が子じゃなくてよかったかもしれないけれど、
我が子と同じ年頃の女の子が殺されたのは紛れもない事実なのだと、
当時の私は声を大にして言いたかったのである。
今でも悲惨な事件をニュースで見聞きすると、
私はあの日の友人の言葉を思い出す。
「あたりまえじゃん。
誰だって人のことよりまずは自分の家族だよ。」
他人の痛みに対してとても敏感だった結婚前の友人なら、
こんな言い方は決してしなかっただろう。
そして私はこの年になってやっと気づいたのだ。
あの時の友人の心には、
他人に共感するだけの余裕がなかったのではないだろうかと。
他人に共感するためには
花の咲く大地のような心が必要だということを、
私は今になってやっと気づいたのだ。
土が痩せていれば花や木や草が育たないように、
心が痩せていたら他人を思いやれるだけの
丈夫な芽は出てこないのだ。
だから世の中が殺伐とすればするほど
心にたくさんの肥料を蒔いて、
他者に共感し、思いやる余裕を育てることが大切なのだ。
たとえ自分や家族が無事だとしても、
世の中が不幸であれば、
その無事は長続きしないのだから。
大空を見て美しいと思い、花の香りに感謝すれば、
自然と心に栄養が染み込んでいくだろう。
そうやって一人一人の心に余裕が育っていけば、
世の中はもう少し暮らしやすい場所になるかもしれない。
そういう場所になればいいなと思いながら、
私は日々大空を見上げている。
みんなが他者の痛みや悲しみに共感し合えれば、
世の中はもっともっと平和になることだろう。
そうなることを私は心の底から
望んでいる毎日なのである。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私は今年のノーベル賞に、
深い深い意義を感じているところである。
なぜなら10月5日に
日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏が
ノーベル文学賞に選ばれ、
翌10月6日には
スイス・ジュネーブに本部を置く国際NGO ICANが、
ノーベル平和賞を受賞したからだ。
ICANは広島と長崎で被爆した方々で組織された
日本原水協、日本被団協とともに、
核廃絶運動を展開し、世界に核の放棄を訴え続けてきた。
そして今年の7月7日に国連会議にて採択された、
「核兵器禁止条約」に大きく貢献したのである。
そこには被爆者の方々の生の証言があり、
それが大きな力になったことは言うまでもない。
そして文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏は、
原爆を投下された長崎県の出身なのだ。
もちろん彼の受賞はご自身の才能と努力によるものではあるけれど、
両者が同じタイミングで選出されたことに、
私は大きな意味を見出してしまうのである。
今、私たち人類は、
重要な選択を迫られている気がするからだ。
地球上には73億もの人間がいて、
そのうちの99.9%がどんなに平和を心掛けても、
残り0.1%の人間が間違った選択をすれば、
たちまち目の前にある世界は消え失せてしまうのである。
その確率をひたすら高めているのは「核」の存在なのだ。
そんな危険な「核」は今すぐにでも廃絶すべきなのに、
世界には「核」を抑止力として保有する国がいくつもあり、
唯一の被爆国である日本でさえ同盟国に同調し、
先の国連会議では採択に参加すらしていない。
そういう今の世の中にノーベル賞という場を借りて、
神様が問いかけているのではないだろうか。
「核戦争の危機が目前に迫っているけれど、
本当にこのままでいいのですか?
平和のためには何が必要で、何が不要なのですか?」と。
人間がいつまでたっても覇権を争って前に進めないから、
神様がちょくちょく
考えるきっかけを与えてくれているのではないだろうか。
「核」の悲惨さは日本人にしか語れないもの。
HiroshimaとNagasakiは世界に通用するコトバ。
両者が揃って受賞したことは、
私にとっては神様からのメッセージに他ならなず、
平和に対して課せられた日本と日本人の役割が、
いかに大きいかということを物語っているようなのだ。
残念ながら日本政府は、
ICANのノーベル平和賞受賞についてノーコメントを貫いている。
私は一人の日本国民として自国の対応が心底恥ずかしい。
けれど世界はそんな日本を見ているし、
私たち日本国民もまた日本という国を見ているのだ。
それもまた神様が与えてくれたきっかけだとすれば、
日本も何かが変わるのかもしれない。
今年のノーベル文学賞とノーベル平和賞は、
私の心にズシリと重いボールを投げた。
そろそろ人類が選択の時期に来ているであろうことを、
予感させる今年のノーベル賞なのであった。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
地球はことのほか小さい。
日本国内であれば東京から沖縄まで飛行機で2時間40分ほど、
東京から北海道までは1時間半ほどで行くことができる。
以前出張で沖縄や福岡へ行く度に、
日本はなんて小さいのだろうと思っていた。
もちろん飛行機の出現によって、
地球はどんどん小さくなったのだけれど、
それでもこどもの頃に感じていた「地球」のスケールとは、
どこか違ってしまったように感じるのだ。
それは私が大人になったからなのだろうか。
公園のジャングルジムや教室の机のように、
私が大きくなったから、
地球を小さく感じてしまうのだろうか・・・。
けれど海の中に思いを馳せた時だけは、
その感覚が薄れるのだ。
普段目にする直線的な水面の下には、
陸地よりも遥かに広い世界が存在しているから。
陸地とはまったくかけ離れた風景の中には、
1,000万種類以上の生物がいるとされ、
その数は陸上に暮らす生物の10倍にもなるのだ。
地球上に存在するすべての生物を重さで表したなら、
その90%が海の生物と言われているほどだ。
地表の70%を占める水面の下では、
想像を絶する様々な命のドラマが繰り広げられ、
陸地よりも遥かに多くの神秘が現存しているのだ。
そんな海が私は大好きだ。
空気の代わりに水が支配する世界の中で、
命が命のままに、漂い続けることができた場所が。
だから海にロケットが投げ捨てられる度に、
私は強い憤りを感じてしまうのだ。
1,000万種の生き物の故郷を、
すべての命が始まった海を、
何故汚されなくてはならないのかと。
こんなにたくさんの命を育める地球は、
宇宙にたった一つしかなくて、
こんなにキレイな星は、
銀河のどこを探したって見つからないのに。
だからもう海にロケットはいらない。
有害物質ももう要らない。
人間が棲まない場所だからって、
何をしてもいいことにはならない。
ロケットに怯える生きものたちには、
何の罪もないのだから。
宇宙のような広がりを見せてくれる海には、
人間が知らない秘密がごまんとあって、
そんな不思議な海だからこそ、
地球を少しだけ大きくしてくれるのだ。
だからもう海にロケットはいらない。
この地球に戦争はいらない。
もう二度と戦争はいらない。
海にロケットは似合わない。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
今日は24節気の秋分だ。
太陽が真東から上って真西に沈み、
昼夜の時間が等しいとされている日。
しかし実際には昼の時間の方が若干長いのだけれど。
この秋分を中日とした前後3日間を秋彼岸と言い、
墓参や先祖供養(彼岸会)の法要をするのが
古くからの習わしだ。
なぜ秋分にご先祖様や故人を偲ぶのか、
それは仏教の教えと深いかかわりがあるからである。
彼岸とは仏教用語で、
「悟りを開いて至る浄土」のことで、
私たちが生きている煩悩の世界を此岸(しがん)と呼ぶ。
仏教の世界では極楽浄土は西にあると考えられてきたため、
真西に太陽が沈む秋分や春分に、
彼岸と此岸が最も通じやすくなるとして、
仏様に祈りを捧げるのに最適な日とされたのだ。
この、秋のお彼岸になくてはならないお供え物と言えば、
やはり何と言っても「おはぎ」だろう。
甘味を口にすることが少なかった昔にはたいそうなごちそうで、
来客のもてなしや田植えの後の寄り合い、
法要の際などに供された食べ物だったということだ。
もちろん春のお彼岸にも同じ食べ物をお供えする。
ところがその際の呼び名は「おはぎ」ではなく
「ぼたもち」が正解らしいのだ。
それは春と秋、
それぞれの季節の花にちなんでいるからだそうで、
春彼岸の「ぼたもち」は、
あずきあんの様子を「牡丹」の花に見立て、
秋彼岸の「おはぎ」は、
あずきあんの様子を「萩」の花に見立てたことが由来らしい。
このことを知った時、
なんとも日本人らしい豊かな感性に、
私の心はすっかり熱くなってしまったのである。
四季の移ろいがある日本だからこそ、
きっと言葉の至るところに、
季節ごとの色彩や香りが含まれているのだろう。
そしてまた、
昔の日本人がどれほど食べ物一つにも、
感謝と愛情を持っていたかが分かるエピソードではないだろうか。
何でもかんでも簡単に手に入る現代の私たちの方が、
もしかしたらたくさんのものを失っているのかもしれない。
少なくともあずきあんを花に見立てる心の余裕はないと思うのだ。
たかがおはぎ、されどおはぎ。
お彼岸のお供え物がまた一つ、
この私に日本の奥深さを示してくれたようである。
さて、暑さ寒さも彼岸までと言うけれど、
今日は本当に秋深い一日であった。
まだしばらくは此岸に生きるであろう私の耳に、
虫の音が細く切なく鳴り響いている。
・・・つづく・・・
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北朝鮮の金正恩、
彼の奇行を理解することは困難であり、
猫大量虐殺犯、大矢誠、
その残虐性を許容することは不可能である。
二人に共通する無慈悲な行動と異常なまでの執着心、
これこそがサイコパスの最大の特徴だ。
「サイコパス」とは先天的な脳神経回路の異常により、
善悪を判断する機能が欠如している精神病質のこと。
良心や善意を持たず、他人に同情も共感もせず、
人を騙したり傷つけることに何のためらいもない状態。
そんな彼らの行動を、
脳が正常に機能している人に理解できるはずがないのである。
サイコパスはまたドーパミンが過剰分泌されることにより、
脳が異常に興奮し、テロや暴力行為に走ったり、
ギャンブル、麻薬、性行為の依存症等、
反社会的で過激な行動をとる可能性がとても高い。
その反面、口達者で社交的であり、
一見すると魅力的に映るのも特徴の一つである。
IQが高い人も多く、経営者や上級管理職ほど、
サイコパスの比率が高いことも明らかだ。
頭が良くて冷酷で、自分本位のサイコパスは、
多くの場合、衝動的にではなく、
用意周到に残虐行為を実行する。
そして良心の呵責がない以上、
それは執拗に繰り返されのだ。
万が一警察に捉えられてもサイコパスは改心しない。
たとえ死刑になったとしても、
最期まで悔い改めることはないのである。
社会にとってこれほど脅威のサイコパスではあるけれど、
現在、治療薬も治療法も確立されていない。
欧米では人口の4%、
アジアではその10分の1がサイコパスと言われている中で、
私たちは知らぬ間に彼らと接触しているかもしれないのだ。
だからこそ監視が必要なのである。
サイコパスはいつでも自分の欲求を満たすことを前提にし、
自分の快楽を達成するために生きている。
常に誰かが監視していなければ、
彼らの妄想は現実のものとなり、
悪夢は永遠に繰り返されてしまうのだ。
かつて悪魔と呼ばれた独裁者や凶悪犯たちの異常性は、
現在もサイコパスの思考回路の中に生き続けている。
それを封じ込められるのは一人一人の意識なのだ。
地球が平和であるために、
すべての生きものが安全であるために、
サイコパスの行動からは、
決して目を離してはならないのである。
彼らに愛の言葉は通じないのだから。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
9月6日、大型太陽フレアが二回発生した。
そのうちの一つ、
午後8時53分に発生した太陽フレアは、
通常の1000倍のX線強度だという。
フレアとは火炎という意味だ。
太陽の表面では常に爆発が起き、
小規模爆発であれば一日に3回程度観測される。
大規模爆発は10年に一度あるかないかで、
今回のように通常の1000倍もある爆発規模は、
相当稀有な現象と言えるだろう。
この大型太陽フレアによって放出された荷電粒子は、
当初9月8日の午後3時から翌0時にかけて
地球に到達すると発表されていた。
けれど実際に地球の上空に到達したのは午前7時ごろのことで、
これにより地磁気が歪んで磁場の乱れが観測された。
唐突ではあるけれど、起こるべくして起こった、
という気がしてならない今回の大型太陽フレア。
私にはそれが天からの強いメッセージに感じて仕方ないのである。
なぜかというと、
大型太陽フレアが発生したのは満月の夜であり、
太陽から放出された荷電粒子が地球に到達したのが
マリア様の誕生日だったからだ。
そしてその日の22時23分に秋田で発生した震度5強の地震は、
到底偶然とは思えない。
なぜならマリア様と秋田はとてもご縁が深いからだ。
秋田とマリア様のご縁とは、
「秋田の聖母マリア」と呼ばれる奇跡現象のことである。
1973年に始まり1984年まで続いたとされる奇跡には、
3度に渡る聖母マリア様からのお告げや、
木製の聖母マリア像から101回落涙したこと、
修道女の手の平に出血を伴う十字架型の傷が現れたことなどがある。
そしてそれらの現象は、
1988年にバチカンの教皇ベネディクト16世により、
聖母出現として正式に認可されたのだ。
マリア様の出現は世界各地で報告されている。
その中で最も有名なのは、
1917年にポルトガルのファティマで起こった奇跡だろう。
3人の羊飼いの少年少女の前にマリア様が複数回現れて、
3つの預言を残したというものだ。
その最後の出現の際、
集まった7万人以上の野次馬全員が、
奇跡の光景を目撃している。
そしてその奇跡から今年でちょうど100年を迎えたのを機に、
ファティマの聖母マリア像が新たに作られ、今月の14、15日に、
秋田の聖母マリア像の元にやって来るのだ。
既に5月から日本を巡回しているその像は、
最終的には広島のカトリック教会に収められるのだという。
かつてない奇跡の聖母マリア像同士のご対面に、
国内外から多くの巡礼者が訪れることが見込まれている。
そんな中で起こった大型太陽フレア現象と、
マリア様の誕生日、それに秋田の地震。
これらが単なる偶然だとは到底思えないのである。
二つの奇跡現象ではマリア様が預言を残されている。
どちらにも共通する人類への警告と要請を。
「もしも人類が悔い改めないのなら、
御父は今までにない罰を下されるに違いない」と。
そして今まさに北朝鮮が核開発を強行し、
ミサイル発射実験を繰り返し、
更に9月3日には水爆実験まで実行し成功を収めたのである。
爆発の威力は広島に投下された原爆の10倍以上とされ、
それは脅威以外の何ものでもない。
人類は北朝鮮の金正恩に命運を握られている、
そう言っても過言ではない現状なのだ。
そんな状況をマリア様は嘆いていらっしゃるのではないだろうか。
今まで何度も何度も人類の前に現れて警告してきたのに、
まるで悔い改めない私たち人類のことを。
そして自然界もまた同様に、
人類に警告しているように思えてならないのだ。
通常の太陽フレアの威力は、
水素爆弾(水爆)10万個〜1億個に等しい。
しかし9月6日に発生した大型太陽フレアは
通常のフレアの1000倍の大きさなのだから、
単純計算でも、
水爆1億個〜1000億個分の威力になる。
つまり自然界が発する力のそれは、
人間の比ではないのである。
そんなちっぽけな人間同士が
何故覇権を巡って殺し合おうとするのか、
そう問いかける声が聞こえてくるようだ。
愚かなことをしている間にいつだって、
自然界は人類など簡単に消し去ることができるのだから。
愚かな人間に残されている時間はきっとあと僅かなのだろう。
その間に取るべき行動はただ一つ。
人類が昇ろうとしている破滅の階段を、
人類自らが叩き壊し、
自然界がしびれを切らす前に、
進んで平和を築くことなのだ。
破滅へ向かう人類の意識を変えられるのは、
私たち一人一人の愛を力だけなのだから。
太陽フレアとマリア様は、
そのことを伝えたかったのではないだろうか。
様々な出来事が一本の線で繋がっている、
私にはそう思えて仕方ないのだ。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
通常、「幸福」の対義語は「不幸」である。
しかし私が解釈する「幸福」の対義語は「不満」だ。
不満とはもの足りなくて満足しないさまやそう思う気持ちのこと。
つまり気持ちが満たされていないのだから、
幸せを感じることなどできないと思うのだ。
じゃあ何で不満になるのかと言えば、
思い描いていた願望と現実が噛み合っていないからだ。
私の人生、こんなはずじゃなかったと思う時、
そこには大抵期待していた何かがあるものだ。
たとえば旦那は年収1千万円のイケメン男子で、
自分は世界を股にかけて活躍するビジネスウーマン、
我が子は親の言うことを何でもよく聞くいい子ばかり、
というように。
けれど現実はそう甘くはないのである。
イケメンであるはずの旦那はフツーのオジサンで、
ビジネスウーマンであるはずの自分は、
家事に追われてついぞ仕事を断念したり、
素直なはずの我が子たちは、
親の言うことにことごとく逆らう反抗期真っ最中。
そんな時、心にぽっかり穴が開いてしまうのである。
期待していた分、失望感が大きくなってしまうからだ。
だったら最初から期待なんてしなければいいのだ。
「期待」とは、当てにして心待ちにすること、
すなわち自分の願望を他人に叶えてもらうようなもの。
そんな虫の良いお話、
本来どこを探したって見つかりっこないのである。
自分の願望は自分で叶えるべし、
今あるものに感謝すべし。
期を待つなら動くべし、
動けるうちに動くべし。
こうやって自ら動けば、
期待する必要なんてないのだ。
期待しなければ不満もなくなり、
不満がなければ喜びが増え、
喜びはより一層幸せを引き込んでくれるだろう。
期待する人、期待しない人、
どう生きるのも自分次第。
不満な人、満足な人、
どう生きたって一つの人生。
だったら幸せが多い方がいい。
だから私は自分で動いて、
納得して生きていこうと思うのだ。
・・・つづく・・・
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つい先日まで、私の子供はネコ3匹だった。
去年の1月20日にクリボーという長男ネコを看取ってから、
私の子供は4匹から3匹になった。
ところが二週間前のお盆と共に、
我が家の庭に新しいネコがやって来たのだ。
花と名付けたそのネコは、
そのまま私の子供になった。
花はもともと庭に遊びに来ていた野良猫兄弟の1匹だったけれど、
警戒心がとても強いのか、
私はそれまで花の姿を2度ほど、かすかに見ただけだった。
花はお盆と同時にふらりと庭にやって来ると、
そのまま庭から離れようとしなかった。
そしてどういうわけだかそのタイミングで、
花は繁殖可能な時期に突入してしまったのである。
花自身にはその兆候は見られなかったものの、
たまたまそこに居合わせた花の父猫が、
目ざとくそれに反応して、
突如花の背中に覆いかぶさると、
首根っこをギュっ噛んで交尾をしようとしたのである。
兄弟猫と無邪気に遊んでいた花は、
父猫のそれもまた遊びと捉え、
一生懸命にじゃれようとするのだった。
けれど私は父猫の行動にひどく驚き、
「このエロじじー、やめろー!」
と叫びながら父猫をはねのけたのだった。
けれど何度引き離しても父猫は花に覆いかぶさるのだった。
「なんてこった! 父猫のくせに・・・」
半ばパニックの私は一人ブツブツ文句を言いながら、
花を父猫から隔離すると、
翌日慌てて花を病院へ連れて行ったのだった。
緊急の避妊手術を施してもらうためである。
幸い手術は無事成功したけれど、
突然の入院手術で花にはずいぶん怖い思いをさせてしまったと思う。
けれど世の中にこれ以上不幸なネコを増やしたくはなかったし、
それに何より花の体が気掛かりだったのだ。
兄弟猫と比べて極端に体が小さく痩せ細っている花は、
体を動かすと四肢が痙攣してしまうのだった。
そんな花が出産を無事に乗り越え、
野良で子育てできるとは到底考えにくかった。
いや、たとえ出産しなくとも、
屋外で花がひとり生き伸びるには余りにも危険が多い。
だから退院後、花はそのまま家の子になったのだ。
花との出会いはそんなふうに、
私に迷う隙さえ与えない程、
家族になることが当然のようだった。
そしてあれから二週間、
花との生活はとても幸せであると同時に、
とても不思議な毎日なのである。
花の鳴き声、鳴き方、仕草、癖、
好きな食べ物、性格、何もかもが、
ちょうど10年前の9月14日、
15歳5ヵ月で永眠したチビチビというネコと同じなのだ。
初めのうちは偶然だろうと思っていたものの、
偶然が10回、20回、30回と重なれば、
それがただの偶然ではないことを私にも理解できた。
そうして私は試すように花に向かって、
「チビチビ」
と呼んでみたのだった。
するとどうだろう、
花は目をまん丸くしてお返事をすると、
この上ない喜び方をしたのだった。
「やっぱりチビチビなんだ!」
私の心はすっかり舞い上がり、
10年ぶりの再会に涙してしまったのである。
そう、花はチビチビの生まれ変わりなのだ。
約束通りちゃんと私の元に舞い戻って来てくれたチビチビは、
あの日死ぬほど泣いた私との指切りげんまんを、
ちゃんと覚えていてくれたのだ。
私は思いもかけない出来事にすっかり言葉を失い、
けれど心だけはポッカポカに温まっていた。
以前このブログにも書いた通り、
私の家にはすでにミーチョロという生まれ変わりのネコがいる。
ちょうど今から10年前の私の誕生日の早朝に、
どこからともなく庭にやって来たミーチョロは、
その2年前に亡くなった桃というネコの生まれ変わりなのである。
桃はチビチビのお姉ちゃんにあたり、ふたりは大の仲良しだった。
ミーチョロ(桃)が私の元へ来て間もなくチビチビが天に召されたので、
桃とチビチビもまた10年ぶりの再会ということになる。
動物も人間と同じように輪廻転生するのだと、
ある有名な霊能者がテレビ番組で言っていた。
大好きな大好きな飼い主に会いたくて、
何度でも生まれ変わって来るのだそうだ。
そしてそれが事実だということを、
私は二度も経験しているのである。
だからこそより多くの人に伝えたいのだ。
もしも大切なイヌやネコを亡くして悲しみの淵にいたとしても、
もう二度と生きものは飼わないなんて言わないでほしいと。
もしかしたら目の前の捨てイヌや捨てネコ、
あるいは保健所で怯えながら死を待つイヌやネコが、
大切な大切な家族の生まれ変わりかもしれないのだから。
どんな形を取ってでも動物たちは会いに来てくれる。
どうかそのことを心の片隅に留めておいてほしいと思うのだ。
こちらが愛した以上に愛を返してくれる生きものたちを、
再びその手で抱きしめられるように。
今、花(チビチビ)は私の元で元気に暮らしている。
私の愛を絶対的に信じている。
そんな花や他の子たちが、
永遠に幸せであることを願うばかりだ。
愛しい愛しい子供たちよ、
いつまでも私の愛の中で生き続けておくれ。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
幸せってどこにあるのだろう。
結婚すれば必ず幸せになれるのだろうか。
それとも宝くじで7億円当たれば幸せになるのだろうか。
ある人にとってはそうかもしれないし、
別の人にとってはそうではないかもしれない。
それほど幸せとは不確かなもので、
けれど確実に存在する感覚なのだ。
そう、幸せとは感覚なのである。
心が満ち足りている時、
人は幸せを実感することができるのだ。
つまりは結婚という形が幸せなのではなく、
億万長者になったから幸せになれるというわけでもなく、
心が満たされてこそ、初めて人は幸せに浸れるのである。
夫や子供がそばにいても、
孤独を感じていれば心はぺしゃんこ。
何不自由なく暮らしていても、
楽しくなければ心は空っぽ。
傍から見ているだけでは分からない、
小さな悲しみが一つや二つあるかもしれない。
誰にだって人には言えない、
小さな嘘が一つや二つあるかもしれない。
だから他人と自分を比較するのは、
とても無意味なこと。
自分と向き合うことでしか、
幸せの基準は見えてこないのだから。
青い空が好きならば、
ただ青い空を見上げ、
ピアノの音に恋焦がれるなら、
ひたすら弾き続けるということ。
それが心が満ちるということ。
理由なんて分からなくてもいい。
幸せのタネはいつも心の中にあって、
芽吹きのときを待っている。
無理に咲かせることも、
無理にしぼませることもできないけれど、
あるべき姿で心が満ちれば、
綺麗な花を咲かせてくれる。
あるべき姿で心が喜べば、
何万回でも花は咲く。
幸せはいつも心の中で、
芽吹きの時を待っているのだ。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
今日は8月13日。
ほとんどの地域で迎え盆にあたる。
お盆の間、家で共に過ごすため、
ご先祖様や故人の御霊をお迎えする日。
そんな迎え盆の朝、または前夜に作る精霊馬。
子供の頃の私には、その意味が分からなかった。
胡瓜と茄子に割り箸を差して、
なぜ馬と牛を作ってお供えするのか。
なぜ大の大人が食べ物で動物を作るのか。
子供の私には分からなかったけれど、
敢えて聞くこともしなかった。
そのうちにそれはお盆の景色の中に、
当たり前のように溶け込んでしまったのだった。
そして大人になってその意味を知った時、
私は死して尚、子孫に敬われ大切にされる日本のご先祖様は、
なんてお幸せなのだろうと、深く感動してしまったのだった。
胡瓜で作った馬には、
早く帰ってきてほしいという願いが込められ、
茄子で作った牛には、
ゆっくりと帰ってほしいという思いが詰まっている。
私の祖父母のお墓は遠い北国のはずれにあり、
もうずいぶん長いことそこへは行っていない。
だから毎朝ご先祖様と祖父母にお茶を沸かし、
感謝の気持ちを伝えることが、
私にとってのお墓参りになった。
その反動だろうか、
私はいつの間にかお盆の風習を、
とてつもなく誇りに思うようになっていた。
地域によって形は様々ではあるけれど、
この風習は永遠に続くべきものだと、
心から強く願うようになっていたのだった。
私が今住んでいる地域では、
迎え盆の夕方にお墓で迎え火を焚き、
提灯を灯しながら御霊を家までお連れする。
その光景に出会うたびに、私の胸は熱くなるのだ。
久しぶりに我が家へ帰ったご先祖様たちは、
今頃この一年を振り返り、
家族と語り合っているのだろうか。
美味しい物でも頂きながら、
これからの一年を希望で膨らませているのだろうか。
日本古来の風習には、
とめどなく愛が溢れている。
そんな日本古来の風習に、
ただただ優しさを感じるばかりである。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
日常を生きていると時々、
「うわぁ、」と思うことがある。
たとえば、
「うわぁ、このお花、とってもキレイ。」
とか、
「うわぁ、今日はなんて良いお天気なんだろう。」
というふうに。
人は何かに心を動かされるとつい、
「うわぁ、」という言葉が出てしまうものらしい。
けれどそれは良い時ばかりとは限らない。
「うわぁ、この虫キモイ!」
とか、
「うわぁ、アイツ最悪!」
というふうに、嫌な場合にもつい出る言葉だ。
そして「うわぁ、」に続く言葉に着目してみると、
その人の人となりが見えてくるからオモシロい。
たとえば、「うわぁ、」の後に感嘆の言葉が続きやすい人は、
大らかで優しい人が多く、
「うわぁ、」の後に嘲笑や怒りの言葉が多い人は、
他人のことばかり気にしている人が少なくない。
「感嘆」と「嘲笑」、
どっちに反応してしまうのかは、
一体何で決まるのだろう・・・。
感情とは心の作用のようでいて、
実は脳の偏桃体という部分が決断していることなのだ。
生きる為、身を守るために、
目の前の事象をわずか0.04秒で偏桃体が評価し、
それが体に伝わったものが感情だ。
だから正確に言うと、
「うわぁ、」の後に続く言葉は、
心が動かされた結果ではなく、
偏桃体が出した指令に従った言葉なのである。
ということは、
ポジティブに物事を捉える人の脳は、
その方が生存しやすいと判断し、
何でもネガティブに捉える人の脳は、
その方が身を守れると判断していることになる。
その判断基準は何かと考えてみたら、
「知識」と「経験」しかないではないか。
それをデータベースにして偏桃体が最善を探るのだ。
つまりポジティブな人はポジティブな経験から、
ネガティブな人はネガティブな経験から学習して、
人生の歩む方向を決めていると言えるのだ。
これこそが「うわぁ、」だ。
どちらの経験も連鎖し続けるのなら、
私は断然ポジティブの方がいい。
最悪な状況を想定して身を守ったところで、
それ以上良くなることはないだろうし、
最善の状況を想定してチャレンジする方が、
よっぽどワクワクして楽しそうだから。
「うわぁ、雨が降ったおかげで涼しくなったね。」
「うわぁ、雨のせいでジメジメしていやだねぇ。」
どっちも同じ雨に対する「うわぁ、」である。
その時の状況にもよるだろうけれど、
世の中には好きなものやかわいいと思うもの、
ありがとうが溢れている方がいい。
世の中には実際に、
美しいものやかわいいもの、
奇跡のような優しさが溢れているのだから。
「うわぁ、」の後に続く言葉は、
さり気なく自分の未来を引き寄せている気がするのだ。
・・・つづく・・・
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つい先日、厚生労働省の公式サイトで発表された
2016年の日本人の平均寿命は、
男性が80.98歳、女性が87.14歳だった。
1990年当時は、
男性が75.92歳、女性が81.90歳だったことから、
26年で男女共に5歳以上平均寿命が延びたことになる。
推移表を見ると寿命は右肩上がりに伸びていて、
そのうち日本人は、
100歳まで生きることが当たり前になるかもしれない、
そんなふうにさえ思えてくる。
もしそうなったら、人は幸せなのだろうか・・・。
100歳になっても自分のことがちゃんとできて、
心身共に健康ならばそれはとても素晴らしい。
けれど、もし自分を活かすことができないなら、
私は100才まで生きなくてもいい。
私の望みの一つは、生涯現役でいること。
自分が生きている限り、
どんなに小さなことでも社会に貢献していたい、
どんなに少ない額でも、
自分の力で収入を得て生きていたい。
余生を送る代わりに、
人生を余すことなく生きていたいと思うのだ。
そんな私にとって最高のお手本だった日野原重明先生が、
7月18日に105歳でお亡くなりになった。
100歳を過ぎて尚現役でご活躍だった先生は、
世界に、そして日本中の人々に、
表現できないほどの愛と力を与えて下さった。
自分よりも遥かに若い患者さんを励まし、
支え、癒しておられた先生は、人間でありながら、
既に人間の領域を大幅に超えた存在だったような気がする。
そして世の中には日野原先生のように、生涯に渡り、
社会や人々のために貢献しておられる方がたくさんいる。
自分よりも年下の入所者を元気づけるために、
老人ホームを慰問し続ける芝居サークルのご老人たちや、
命がけで芸術作品を生み出し、
見る者にインパクトを与え続ける老齢の女流画家など。
そんなふうに自分の役割を全うしている人は、
見ていて本当に美しい。
全身全霊で生きる人生はこの上なく楽しそうで、
だから私はそんな生き方に強く惹かれるのだ。
人口の27%が65歳以上というこの国で、
最も大切なことは、どう生きるかなのだと思う。
長生きするために生きるのではなく、
イキイキと生きた結果が長生きならばいい。
人に与えられたら自分も与えて、
バランスよく生きられたらいい。
そしていつの間にか役目が終わって、
シュルッとお空に還れたらいい。
そんな人生を送れたら、
最高に幸せだろうなと思うのだ。
ちなみに長寿は世界第2位なのに、
幸福度では51番目。
そんな日本で暮らすお年寄りたちを、
少々不憫に思う今日この頃である。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
1975年4月から1982年3月まで、
日本テレビ系列で放送されていた
「目方でドーン!」という番組のことを、
なぜかふと思い出してしまった。
ここ最近、
テレビで毎日のように渡辺直美を目にしているせいだろうか。
「目方でドーン!」は今にして思えば、
とても斬新な番組だったような気がする。
毎回一般の夫婦3組が参加するゲーム形式で、
テレビスタジオ内に所狭しと並べられた家電や、
貴金属品、食品、生活雑貨の中から、
欲しい品物を男性が3分以内にかき集め、
総重量を女性の体重の±2kg(後に-3kgに変更)
以内に収めるというものだ。
もし誤差範囲内であれば、
選んだ商品をすべて貰えるという仕組みである。
ただし軽量方法は感覚のみ。
旦那さんはスタジオ中を駆けずり回って、
何度も商品を手で持ち上げて重量を感覚で計るのである。
この番組の最大の魅力は、
体重が重ければ重いほど夫婦が得をするということだ。
そして見ているこちら側も、
出演者の女性がふくよかであればあるほど、
最高にエキサイトできるのだった。
体重が重ければ選べる商品の幅が広がり、
その分旦那さんは汗だくで焦りまくることになるからだ。
そんなご主人にガンバレ!ガンバレ!と声援を送る奥さんもまた、
見ているだけなのになぜか汗だくになっていた。
けれどその図は幸せそのものであり、
太っていようがいまいが、
人が幸せに生きることとそれとは何の関係もないということを、
子供の私に悟らせてくれたのだった。
真夏の今、
テレビでも雑誌でも痩身の話題が取り上げられている。
どうやったら簡単に痩せられて、
何を食べたら、何を飲んだら体重が減るのかと。
街にはモデルのように細長い女の子が溢れ、
その後ろ姿は痛々しいほどに痩せていて、
そしてみんな似ている。
だからこそ今、渡辺直美なのだろうと思う。
今の日本の芸能界に於いて、彼女は唯一無二の存在だ。
あの重量感でプロも顔負けのダンサーであり、
可愛くてセクシーときているのだから見ていて飽きない。
そして彼女はいつの間にか、
自分という新しいジャンルを確立してしまったのだ。
何故そんなことができたのかと言えば、
理由はただ一つ、
自分自身に誇りを持っているからだろう。
「私は自分の体形に誇りを持っている。」
彼女の言葉がアメリカのある雑誌で取り上げられると、
多くのアメリカ人がそれに共感し、
彼女はその地でもたくさんの人に愛されるようになった。
自分に誇りを持って生きること、
それこそが自分を幸せに導く鍵なのだ。
さて、夫婦で力を合わせて商品を獲得する「目方でドーン!」は、
今ならどんな番組に仕上がるのだろうか。
自分の体重を正々堂々と世間に公表する妻を、
揺るぎない愛で包み込む夫。
果たして21世紀にはどれくらい、
出演可能なご夫婦がいることだろう・・・。
うーん、無性に見たくなってきた。
どなたか作ってくれないものか。
ちなみに初代司会進行役は、
レッツゴー三匹のお三方であった。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
もう何年も通っている整骨院の院長先生が、
ある日こんなことを言っていた。
「健康な人の体はプラスの電気を帯び、
病気の人はマイナスの電気を帯びているんですよ。」
私たちの体には、
「生体電流」と言われる微弱な電流が流れていて、
これが細胞を刺激することによって、
新陳代謝が促進されたり、自然治癒力が高まるのだ。
院長先生曰く、
健康な人の生体電流を測定するとプラスになり、
体調の良くない人を測定すると、
マイナスになるということだった。
それは生き方にも当てはまるらしく、
幸せな人生を送っている人の電気はプラス、
自分は不幸だと感じて生きている人は、
マイナスの電気を帯びているそうだ。
私が子供の頃から本能で知っていたのは、
幸せな人はポジティブなエネルギーを放出し、
不幸な人はネガティブなエネルギーに包まれているということ。
けれどそれを数値で証明できるとは夢にも思っていなかったので、
私はその話を聞き、いたく感動したのであった。
なぜ院長先生がそんな話を私にしたのかと言うと、
医院で使用している「マイクロカレント」という器具のすごさを、
ただ単に伝えたかっただけなのである。
その器具は金属でできたコロコロになっていて、
体の気になる部分になぞって転がすことで、
生体電流を促進させて新陳代謝を活発にしつつ、
帯びている電気をプラスに変えてしまうという代物らしい。
確かに健康器具としては興味深いけれど、
私が食いついたのはそこではなかった。
私の目が好奇心でランランと輝くと、
院長先生は「しまった!」という顔をした。
微妙に変わっている院長先生は、
私の知らないことをたくさん知っているので、
いつも私の「なんで? なんで?」攻撃に遭遇してしまうのである。
そんな院長先生が教えてくれた情報は、
とてもユニークでインパクトがあった。
社会的に成功している人はプラスの電気を帯びていて、
不満や怒りを抱えて生きている人は、
漏れなくマイナスのエネルギーを帯びているのだそうだ。
またマイナスのエネルギーはとても強力で、
プラスのエネルギーに触れると、
すぐさまマイナスに変えてしまうらしい。
どうりでネガティブ発言ばかりする人と一緒にいると、
肩のあたりがどんより重たくなるはずだ。
院長先生はさらに続けた。
「人と握手をする時は特に気をつけなさい。
手のひらはエネルギーが伝わりやすいから。」と。
(へー、体ってすごい・・・。)
私にはそんな言葉しか思い浮かばなかった。
体を取り巻く見えないエネルギーが、
自分の人生を表現していたなんて。
幸せな状態、健康な体を作りたければ、
まずはプラスの電気を帯びればいいということだ。
そこで手っ取り早くプラスの電気を帯びるには、
笑顔で過ごすのが一番だろう。
口角が上がるだけで、幸せホルモンが分泌されるからだ。
笑っていよう、笑っていよう、
どんな時でも笑顔でいよう。
プラスの電気を帯びるのも、マイナスの電気を帯びるのも、
自分次第なら笑っていよう。
泣いた後でも怒った後でも、
笑顔に戻ればチャラになるはず。
そこで私はふとある疑問に行き着き、
院長先生に問いかけてみたのだった。
「ところで先生たちは平気なの?
毎日何人もの患者さんに触れるでしょ?
マイナスのエネルギーの人がいたらどうするの?」
すると院長先生は自信満々にこう言ったのである。
「大丈夫です。僕たちにはマイクロカレントがありますから。」
普段真面目な院長先生が、
突然そんなことを言うものだから、
私はジャパネット高田の前社長を思い出し、
必死で笑いをこらえているうちに、
余計に腰を痛めてしまったのであった。
さて、笑いながら痛い思いをしたこの時の私は、
一体どちらの電気をおびていたのだろうか・・・。
・・・つづく・・・
【追記】
後日院長先生に再確認したところ、
マイナスのエネルギーを帯びてしまった場合、
草花、樹木、土、生きもの等、
自然に触れてもプラスに戻るとのことだった。
つまり自然の中で過ごすのが一番ということなのである。
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JUGEMテーマ:エッセイ
ちょうど一カ月前のこと、
寝ている私の身に再び不思議なことが起こったのである。
前回(vol.82)は高圧電流を全身に流されたのだけれど、
今回は「磁気」を全身に浴びたのだった。
その日は午前1時半過ぎにベッドに入り、
iphoneを手にした途端に深い眠りに落ちてしまった。
一つ鮮明に覚えているのは、
私の枕元でミーチョロというネコが、
尋常ではないくらい丹念に自分の体を舐めていたことだった。
やがて全身に衝撃を感じて目を覚ますと、
既に自力では体を動かせない状態であった。
「まただ・・・」
二回目ともなるとパニックの度合いは低くなるようで、
怖さ半分、面白さ半分が心の中で渦を巻き、
「えーい、いっそこのまま楽しんでしまえ!」
という衝動が胸に広がったのであった。
枕元にいたミーチョロが、
さっきと同じように自分の体をペロペロと舐めている、
その音がはっきりと耳に届いていたから、
私は心強くいられたのかもしれない。
今回体に受けた衝撃は前回とは少し違っていた。
全身に降り注ぐ初めての感覚はとても柔らかく、
決して嫌なものではなかった。
「あー、これは磁気なんだ。」
私はすぐにその正体が何であるかを知ることができた。
既に私の中には答えが用意されていて、
それをなぞって理解するという感じだった。
磁気を浴びている間、私はなんだか可笑しくなってきて、
一人でゲラゲラ笑い声を上げてしまった。
体を動かすことはできないけれど、
声を出して笑う自由は残されていたのだ。
そしてその間もミーチョロは、
マイペースに自分の体をペロペロと舐めていた。
磁気のじんわりとした感覚に慣れてくると、
私は無意識に心の中で呟いていた。
「もう少し強くても大丈夫。」
すると左のベッドサイドから突然、
「4に上げてみて。」
と誰かに指示を出す女性の声が聞こえてきたのだった。
しかし姿はまったく見えなかった。
「はい、4に上げました。」
指示を出された女性がそう言うと、
磁気のじんわりとした感覚が少し強くなるのと同時に、
余計に笑いが止まらなくなってしまったのだった。
そしてそんな自分を客観的に見つめている自分がいた。
「これって体にいいんですよね。」
私が心の中でそう尋ねると、
「YES.」
という今度は声のない返事が心の中に響き渡り、
そこでこの経験は唐突に終わったのである。
突然外で野良ネコのケンカが始まると、
私の体はふっと自由になり、
女性たちの存在は跡形もなく消えてしまったのだ。
(一体何だったのだろう・・・)
私はなんだか狐につままれたような気分に陥っていた。
それに同調するかのように、
枕元のミーチョロもペロペロするのをやめて、
ベッドからポトンと下りるや否や、
部屋を出て行ってしまったのだった。
私はすぐにiphoneを手探りで見つけて時間を確認してみた。
すると眠りに落ちてからたったの5分しか経っていないのだった。
しかしその5分が私にはずいぶんと長く感じられ、
二度目の不思議な夜もまた、私を呆然とさせたのである。
その後磁気について色々調べてみたところ、
現代医学に磁気治療というものは存在しなかった。
磁気枕や磁気ネックレスといった健康グッズは販売されているものの、
磁気の効能が医学的に証明されているわけではないということだった。
今後磁気がどのように活用されていくかは分からないけれど、
私に降りてきた感覚は、
「磁気がNK細胞に良い意味で働きかける」ということだ。
NK細胞とは「ナチュラルキラー細胞」のことで、
がん細胞やウイルス感染細胞など、
体に良くないものを攻撃するリンパ球のことである。
私の感覚が正しいかどうかは分からないけれど、
少なくとも私をケアして下さっている異次元の世界の方たちは、
既に磁気を活用しているということだろう。
いいや、磁気に限らず宇宙に存在する様々なエネルギーを。
そして私は今日ブログを書きながらふと思ったのである。
実はずっと昔から私はこんなふうに、
体をケアしてもらっていたのではないかと。
たくさんの存在に守られて、
今日まで奇跡的に生きてこられたのだとしたら、
それはもう精一杯感謝の気持ちで生きるしかないのだ。
魂だけでは人間になれず、
人間でなければ人生を経験できない。
経験をしなければ魂は磨かれないのだから、
やっぱり人間として体を持っている今のうちに、
たくさんの善い行いを経験するしかないのである。
さてさて次回はどんな異次元療法で、
私をケアして下さるのだろう。
なんだかワクワク楽しくなってきたから、
今夜はこの辺で眠るとしよう。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
昨夜、遅まきながら、
日本テレビで放映していたドラマ、
「フランケンシュタインの恋」の最終回を見た。
見終わった後に胸がキュンとなり、
時間が経つほどにどんどん切なさが増してくる。
永遠の命の持ち主である主人公の深志研は死なない。
死にたくても死ねない運命なのだ。
そんな彼が最後にどうなるのかなと、
私は結末を想像できないでいた。
そして迎えた静かなラストシーンは、
私の心にずしりと響いたのだった。
肉体的に年をとらない彼だけが、
一人取り残されて生きていたから。
心から愛する女性を見送った後も、
彼が一人、森の中に生きていたから。
私はその結末に、
永遠の命なんていらないことに気づいたのだった。
たとえ重要な使命があったとしても、
たった一つの人生を永遠に生きる続けることは、
切なすぎて、悲しすぎて、
私ならきっと耐えられないだろうなと心から思った。
愛する者を次々と見送った後も、
その記憶を心に留めながら永遠に生きていくことは、
ただひたすらに苦しい。
終わりがある人生だからこそ、
新しい何かを始められて、
いつか消えてしまう存在だからこそ、
精一杯の愛を残そうとするのではないだろうか。
自分は確かにここにいたんだよという証拠を、
精一杯に残そうとする。
そうやって人生は膨らんでいくものだと思う。
「フランケンシュタインの恋」を見て本当によかった。
見終わった後にこんなふうに深く考えさせられたドラマは、
一体いつぶりだろう。
まるで映画のように美しいドラマは、
私を度々癒してもくれた。
ストーリーも映像も美しく、
そしてすべての俳優たちの演技が清らかだった。
主人公の深志研はこの瞬間もどこかの森で、
本当に生きているような気さえしてしまう。
赤いキノコを森のあちらこちらに、
生み落としているのではないだろうかと。
たった一人の女性を想いながら。
永遠に続く怪物の命と恋が、
私の心の奥深くを、音もなく揺さぶっている。
・・・つづく・・・
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6月22日の夜、
小林麻央さんが34歳の若さでこの世を去った。
2年8カ月間、麻央さんが家族と共に闘い続けた病は、
やっと麻央さんを解放してくれたのだ。
どれほど苦しかっただろう。
どれほど痛かっただろう。
その辛さは壮絶だったであろうと、
ある医者がテレビでそうコメントしていた。
それでも麻央さんは懸命に生きようとしていたのだ。
幼い二人の子供のために。最愛の夫のために。
今頃きっと多くの人が麻央さんの死を悼み、
「生きる」ことの意味を考えているだろう。
さっきまでここにいた人がもういないということ。
さっきまで温かかった手の平が冷たくなるということ。
「生」がずっとは続かないという現実を、
日本中の人々が目の当たりにした一日だった。
後に残された市川海老蔵さんの悲しみを思うと、
とてもいたたまれない。
海老蔵さんにとって麻央さんは、
生れて初めて愛した女性だと思うから。
心の底から愛するということを、
初めて経験させてくれた女性だと思うから。
麻央さんと結婚してからの海老蔵さんに、
私はいつも「100万回生きたねこ」(佐野洋子作)
の主人公を重ねていた。
〜100万回も生まれ変わって、100万回も死んでいるのに、
飼い主との別れが全然悲しくなかったねこ。
100万人いた飼い主のことが大嫌いで、自分が大好きだったねこ。
ところがある日、一匹の白い雌猫に出会うと、
ねこはずっと一緒にいたいと思うようになり、
やっとのことで白猫がその思いを受け入れてくれると、
2匹は一緒に生きるようになったのだ。
そのうちに子供もたくさん産まれて、とても幸せだった2匹のねこ。
けれどやがて年老いた白猫が、ねこの隣りで静かに動かなくなると、
ねこは生まれて初めて悲しんだのだった。
朝も昼も夕方も夜もずっとずっと泣き続けていたねこ。
100万回も泣き続けたある日のお昼にねこは遂に泣き止み、
とうとう白猫の隣りでねこも動かなくなってしまったのだ。
そしてねこはもう二度と生まれ変わることはなかった。〜
というお話。
私はこの絵本が大好きで、ずっと大切に持っている。
人はなんのために生きるのかを、
この絵本はそっと教えてくれている。
愛を知らなければ悲しみを知らないですむけれど、
愛を知らなければ心はずっとずっと、
満たされることがないということを。
海老蔵さんの悲しみは、
誰にも推し量ることができないけれど、
こんなに誰かを愛し愛された人生は、
やっぱりこの上なく幸せだったのだと思う。
家族で過ごした日々と麻央さんの姿は、
子供たちの心の中に永遠に生き続けるだろう。
旅立つ直前まで力強く生きてくれた麻央さん、
本当にお疲れ様でした。
あなたの生きる姿勢は多くの人に、
勇気と希望を与えてくれたのですよ。
あなたのことがみんな大好きです。
あなたのことをみんな忘れません。
だからどうぞ安らかにお眠りくださいね。
今までありがとう。
麻央さんのご冥福を心よりお祈りします。
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JUGEMテーマ:エッセイ
私は最近キレるお年寄りをやたら見かける。
たとえばスーパーマーケットでレジ待ちをしていると、
前に並んでいたおじいさんがいきなりレジ係りの女性に対し、
「もたもたしてんじゃねーよ!」と怒鳴ってみたり、
道を歩いているおじいさんの横を車がゆっくり通りすぎた瞬間に、
「危ねーじゃねーか! コノヤロー!」と叫んでみたり。
急にどうしちゃったの?とツッコミを入れたくなるようなキレ方をするのだ。
かくいう私も何度かお年寄りにキレられたことがある。
ある日ショッピングセンターの駐車場から車を出そうとエンジンをかけると、
70歳代の女性が運転する車が、私の車目がけてバックしてきたのである。
私が咄嗟にクラクションを鳴らし、相手に自分の存在を知らせると、
その女性は車を停めるなり飛び降りてきて、
「てめぇ、コノヤロー!
クラクションなんか鳴らすんじゃねーよ! バカヤロー!」と、
女ヤクザさながらに私にすごんでみせたのだ。
見た目はいたって普通のそのご婦人に私はたいそう驚き、
そして理不尽な言いがかりにカチンときたのである。
しかし何と言っても相手はお年寄り。
「落ち着け、自分。落ち着け、自分。」と何度も心の中で呟いて、
どうにか私はその場を離れたのだった。
こんなふうに、私はちょいちょい車に乗ったお年寄りに絡まれるのだ。
きっと住んでいる地域のガラが悪いのだろう、
私はそう思っていた。
けれどニュースを見ていてもやっぱり日本全国津々浦々で、
お年寄りのトラブルが後を絶たない。
特に印象深いのは、昨年3月に兵庫県で起きた事件だ。
たばこのポイ捨てを注意されたことに立腹した75歳の男が、
6歳男児の首を両手で絞めて逮捕されたのだ。
69歳も年下の相手に対して本気でキレたことに、
私は強い衝撃を覚えたのだった。
幸い子供は無事だったけれど、心に受けた傷はどれほど深いだろう。
私が子供の頃に抱いていたお年寄りに対するイメージは、
「おばあちゃんのぽたぽた焼き」と「日本昔ばなし」だ。
穏やかな笑顔のおじいちゃんとおばあちゃん。
いたずらっ子を優しく説き伏せることはあっても、
本気で子供にブチ切れたりなんかしないのである。
些細なことですぐにキレるお年寄りたち。
どうやら理由は脳の老化にあるらしい。
脳の機能が衰えて理解力が低下し、
更には感情をコントロールする部分が委縮するために、
怒りの感情が抑制しにくくなるそうだ。
「あの人、年を取ったらずいぶん人が変わったわね。」
という言葉をたまに聞くけれど、それは逆で、
実際はもともと持っていた本性が剥き出しになった状態らしい。
なんだか残念だな、と私は思うのだ。
せっかく70年も80年も頑張って生きてきたのに、
最後の最後にブチ切れて、
誰からも相手にされなくなるなんて・・・。
だからそうならないために、
まずは脳みそをじゃんじゃん使うしかないのである。
自分は何でも知っている!という傲慢を取っ払い、
謙虚にしなやかに学ぶのだ。
古き良き時代はもちろん大事だけれど、
新しい時代だって負けず劣らず面白いのだから。
今まで知らなかったことを知り、
今までしなかったことを始めると、
脳みそはどんどん蘇ってくると言う。
80歳を過ぎて尚、
ネットをバリバリ使いこなしている諸先輩方を見かけると、
私の心は「かっちょえー!!」と叫び、シビレまくる。
あんなふうにカッコよくなりたい!
あんなふうにカッコよく生きたい!と心底憧れてしまうのだ。
将来自分がお年寄りになった時に、
私も誰かにそう言ってもらえるように、
今のうちから脳みその柔軟体操でも始めておこうかな、
なーんてことをふと思う、今日この頃なのである。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私は最近つくづく思うのだ。
Twitterの役割がいかに大きいか。
私は今までずっと信じていた。
日本はどこの国よりも安全であると。
誰もが自由に心を表現できて、
知りたいことは何でも知ることができる国なのだと。
ところが海外メディアが報じているのに、
日本のマスコミが取り上げない日本のニュースが実在したり、
政府が一丸となって国民を欺こうとしていたり、
私は今、生まれて初めてこの国に不信感を抱いているところだ。
自国を信じられないのはとても悲しい。
だからこそ現実を知ることができるTwitterをやっていて
本当に良かったと思うのだ。
一流のジャーナリストや政治家が実名でアカウントを作り、
私たちでは知り得ない事実の数々を、
惜しみなく伝えてくれるからだ。
テレビ局にとってもTwitterは情報の山だ。
どの局も一般人がTwitterに投稿した動画やツイートを、
度々ニュース番組で引用している。
きっと、国民が今この瞬間に何を思い、
何を求めているのかを手っ取り早く知ることができるからだろう。
重いカメラを担いで現場に駆けつけるよりも、
ずっと効率的で、余程正確なのだ。
現政権の隠ぺい体質が看過できないほどに酷い今、
Twitterの役割はますます重要になってくるだろう。
「国民はいつでもあなたたちをチェックしているのですよ」、
というメッセージを一人一人が発信し続ければ、
政府はもう今までのような好き勝手はできないはずだ。
先日も自民党の議員秘書が、
大阪でナンパした女性に飲み屋でキスを拒まれ、
悪態をつきまくっていることを
飲み屋のマスターがツイートした。
議員秘書のセクハラとパワハラは、
すぐさま世間やマスコミの知るところとなったのだ。
また、自由党の山本太郎氏がNHKに対し、
「加計学園問題に忖度報道を続けるなら、
受信料支払いをボイコットする」
という旨をTwitterに投稿したところ、
偶然なのか、それとも彼の影響力を考慮したのか、
それまで弱腰だったNHKの態度が一変し、
加計学園問題を適切に報道するようになったのだ。
私はその時、正しい思いを口に出し、
発信することの大切さを改めて思い知らされたのだった。
もちろんTwitterは良い面ばかりではない。
様々な思想がひしめき合っているのも事実だ。
しかしそのことを理解した上で正しく活用するならば、
こんなに素晴らしいツールは他にないと思うのだ。
世界中のあらゆる人と直結し、
なんならトランプ氏にもリプライが送れて、
一流アスリートをダイレクトに応援することもできる。
世界平和を実現することだって夢ではないかもしれないのだ。
だから私はこれからも見て見ぬふりはしない。
知る権利と発言の自由を平和的に行使して生きていくつもりだ。
ピヨピヨとさえずる小鳥のように、平和的に物を申して生きていく。
ダメなものはダメ、素晴らしいことは素晴らしいと、
ちゃんと声に出さなければ何も変わらないのだ。
Twitterがこの世にある限り、私はいつでも小鳥でいられる。
そう、私はいつだって、自由にさえずる小鳥なのだ。
真実を知る権利と、真実を伝える権利を持った、
羽根の生えた自由な小鳥。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私たちが普段何気なく目にしているてんとう虫が
実はすごい生きものだということが判明した。
てんとう虫は2種類の羽を持っていて、
星が描かれた外側の硬い「さや羽」の内側に、
飛行用の「後ろ羽」を収納している。
後ろ羽は体よりも大きくて、
飛ぶ時にはそれをシュパッ!と一瞬で広げ、
着陸する時にもやっぱり魔法のように、
シュパッ!と瞬時に折りたたんで収納する。
この収納メカニズムが今までまったく謎だったのだ。
それを東大などの研究チームが世界で初めて解明し、
5月16日に米国科学アカデミーで発表したというわけなのだ。
今後この収納システムは、人工衛星のアンテナや、
折り畳み傘などの展開方法として応用できるそうだ。
てんとう虫は羽を収納する時、
さや羽の内側の湾曲している部分や角を利用しながら、
後ろ羽を背中でこすり上げて徐々に中へ引き込んでいるそうだ。
研究の結果、羽の折り畳み方には、
「テープスプリング構造」という、
科学的な理論が備わっていたことが分かったのだ。
てんとう虫はこれを利用して、
飛行時の羽ばたきに耐えられる強度と、
素早くコンパクトに羽を折り畳む機能を両立していたというわけだ。
すごいの一言だ。
人間が百年以上もかけてコツコツ解明してきた近代科学が、
こんなに身近なところで既に実践されていたなんて。
てんとう虫にしてみれば4億年前からそうやって生きているのに、
何を今さら?という心境かもしれないが、
人間の脳みそにはまだまだ謎が多すぎる世の中なのだ。
「人間ごときが地球のすべてを分かったような顔をするんじゃない」と、
まるで戒められているような気がした今回の羽の解明。
昆虫から見ればまだまだひよっこの人間たちは、
もっと謙虚に、もっと感謝して、
他の生きものたちから学ぶべきなのかもしれない。
だって人間はついこの間、地球に誕生したばかりなんだもの。
ちなみに5月初旬に私の家では、
100匹を超えるてんとう虫が生まれた。
太陽光パネル設置のために、近所の森が次々と伐採され、
住処を追われたてんとう虫が、泣く泣く避難してきたのだろう。
私の家はそういう場所らしい。
ネコも、樹木も、お花も、昆虫も、なんでもかんでもやって来る。
そして我が家に棲みついたてんとう虫たちが、
感動的な羽化のシーンを何度も見せてくれたのだ。
生まれたてのてんとう虫は、まるで宝石のように光り輝き、
命の神秘に私は何度も何度も絶句したのだった。
一つ一つの命の重さは、人間だろうと昆虫だろうと、
どれもみんな同じで、
生きる自由も、生きる権利も、
みんな同じだと改めて気づいたのだ。
近い将来、てんとう虫の羽を真似した人工衛星が
宇宙から様々な情報を地球に届けてくれるかもしれない。
そう思いながら改めててんとう虫を手に乗せてみると、
いつにも増して7つ星は光り輝き、
思わず目を細めてしまうほど、小さな体が眩しくて愛しかった。
さなぎから出た直後のナナホシテントウムシ。
背中にはまだ星がない。
時間が経つと背中に8個の星が浮き上がり、
後ろ羽を伸ばす。
時間をかけてゆっくりと後ろ羽を折り畳む。
星もだいぶくっきりしてきた。
あともう少しで後ろ羽の収納完了。
後ろ羽を完全にさや羽にしまい、
後頭部にあった2つの星が一つに合体して星は7つに。
ナナホシテントウムシは見事成虫へ! めでたしめでたし。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私は前川氏が記者会見したことを心から尊敬する。
日本国で最高の権力を握る人物と組織に対し、
一人真っ向勝負をかけているのだから。
その姿勢こそが、
彼の言葉が真実であることを証明している。
そして別次元から言わせて頂くと、
前川氏の声は嘘をついていない。
私の耳はその人の声で真偽を振り分けられるので、
記者会見で彼の第一声を聞いたときに、
彼が自分の天命を懸けて、
政治の闇に光を当てようとしていることを察知した。
だから居ても立っても居られなくなり、
急遽ブログを更新させて頂くことにしたのだ。
私たちに今できることは、世論の声で彼を守ること。
真実の声を守ること。彼の勇気に力を与えること。
そして事実を解明すべく、
一人一人が政府に対して声を上げること。
今、この社会の中で、
たくさんの人が虐げられている。
どんなに正しいことをしても、
どんなに一生懸命に働いても、
結局は力のある人が弱者の夢も希望も未来さえも、
何もかもを持ち去ってしまう。
けれど弱者の上であぐらをかいて、
どんなにほくそ笑んだとしても、
弱者が立ち上がりさえすれば、
もう二度とあぐらをかけないってことを、
権力者はそろそろ知る時なのだ。
本来、日本は世界に先駆けて、
平和を維持しなければならない国なのである。
みんなが自由に心を語り、
誰もがいつでも真実を知ることができる、
そういう国でなければならないのだ。
数々の苦難を乗り越えてきた日本だからこそ、
平和の尊さを訴える義務があるのだ。
今、前川氏の言葉と勇気に光を当て続けなければ、
日本は確実に足音を忍ばせて戦前の世に戻るだろう。
私たちが自覚すべきは、
日本政府にはまかり間違っても、
自国民の自由と平和と財産を奪う権利はないということ。
そして安倍総理は、森友、加計両学園疑惑について、
きちんと説明責任を果たさなければならないということ。
国民に対して嘘偽りなくすべてを開示しなければ、
国民は決して納得しないのだ。
なぜなら彼を雇っているのは、私たち国民一人一人なのだから。
神国日本に生まれた私たちには、
それぞれ神聖な役割がある。
平和の素晴らしさと、自然を敬う心と、
自由であることの大切さを世界に発信すること。
そのために必要なのは、
日本がいつでも平和であること。
自由に意見を述べられること。
実際にあったものをなかったものになど、
できるわけがないのである。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
雨音を聴いていると、心が和む。
「今日はゆっくりしててもいいよ。」
まるで神様がそう言ってくれているみたい。
お坊さん曰く、雨の日は死ぬ人が少ないんだとか。
心がゆったりするからだろうか。
手のひらに落ちたしずくが、
さっきまであの空にいたと思うだけで、
私はなんだか嬉しくなる。
天のぬくもりを感じた気がして、
なんだか嬉しくて泣きたくなる。
雨はたくさんの贈り物を私たちに与えてくれる。
心と体にたくさんの贈り物を届けてくれる。
雨音は脳波をα波に誘導して、
心身の緊張をスルッとほぐしてくれる。
免疫力が高まったり、脳の機能が活発になって、
心と体が元気になる。
雨が降るとマイナスイオンが多くなって、
汚れた空気をきれいにしてくれる。
体液、細胞、神経系統にも、
良い影響を与えてくれる。
だから雨の日の地上は、
まるで天然のヒーリングサロン。
植物、生物、私たちの心身に、
たくさんの栄養を与えてくれる。
明日からまたしばらくは、
晴れが続きそうだけれど、
太陽の日差しと雨のしっとりは、どっちも大切。
どっちにも癒されて、どっちにも愛されて、
どっちにもありがとうって言おう。
自然の恵みを自然体で受け取って、
私はありがとうって言う。
地球に溢れるたくさんの恵みに、
一つ残らず、ありがとうと言って生きていく。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
私はハチに愛されやすい。どういうわけだか寄ってくる。
いろんな種類のハチたちが、代わる代わる私を取り囲むのだ。
だからと言って決して刺そうとしているわけではなくて、
たとえば今朝の西洋ミツバチは、
1時間以上私にへばりついた後で、ふっとどこかへ消えてしまった。
こんな調子だから、
ハチについてのエピソードはごまんとあって、
今日はその中からアシナガバチが私にくれた、
貴重なお薬についてお伝えしようと思う。
ハチの中でも特に私に情熱的な、
長い足をブラーンとぶら下げたアシナガバチ。
彼らはかれこれ4〜5年前から、
我が家で越冬するようになっていた。
毎年10月の終わり頃になると、
決まってアシナガバチはやって来るのだ。
第一陣、第二陣、各十数匹ずつに分かれて到着すると、
一塊となって、我が家の2階の一室で、
静かに冬を越すのである。
最初の年はそれはもう大パニックで外に追い出したけれど、
それでもハチは毎年やって来るから、
そのうち私も根負けして、
遂には越冬基地として、一部屋を提供することになったのだ。
それに、どのみち女王蜂以外は冬を越せないのである。
それがアシナガバチの悲しい運命なのだ。
なーんてことを言っていたら、暖冬のせいなのか、
この春は、な、な、なんと、
8匹ほど(ハチだけに)が生き延びたのである。
こんなことは初めてだった。
3月下旬から4月上旬にかけて、
全滅したと思っていたハチたちが、
順次部屋のどこからかヨタヨタと姿を現し、
力を振り絞るようにして、
桜花の世へと飛び立って行ったのだ。すごい!
しかし残念ながら、
窓辺まで来て力尽きてしまったハチたちもいて、
私はその姿を見つけるたびに、
「よく頑張ったね。偉かったね。」と一声かけて、
庭の片隅に埋めていたのだ。
そして、あの時もそうだった。
ハチ越冬部屋に掃除機をかけようと中へ入ったら、
アシナガバチが1匹、床に転がっていたのである。
触ってもピクリとも動かないので、
私はもう亡くなっているのだろうと思った。
けれど万が一生きていたら大変申し訳ないので、
いつものようにハチを机の上にそっと置いて、
半日様子を見ることにしたのだった。
そして夕方近くになり、ハチの様子を見に行くと、
さっき私が置いたままの姿勢で、静かに横たわっていたのである。
ハチの死を確信した私は、そのまま左手でふんわり包むと、
「よく頑張ったね!」と声を掛けながら階段を下り、
サンダルを履いて庭に出たのだった。
そして埋める場所を探そうとしたその時に突然、
チックーーーーーーーン!!
と左手に激痛が走ったのである。
私の体は咄嗟に反応し、手のひらを広げて手首を振ると、
死んだはずのハチがピョーンと弾け飛び、
弧を描いて地面に落下したのだった。
そして地面の上で腰をクネクネと動かしている。
なんとハチは生きていたのだ。
(うっそーーーーー!!!)
私が生れて初めてアシナガバチに刺された瞬間だった。
しかし刺されたことよりも、
ハチが生きていたことの方が私には大きな驚きなのであった。
何度も言うけれど、ハチは本当にピクリとも動かなかったのである。
間一髪、私は危うくハチを生き埋めにするところだったのだ。
(良かったー、気づかせてくれて。本当にごめんね。)
完全なる正当防衛のハチに、私は心の中で謝りながら、
刺された箇所をムンギュと右手の指で絞り、
蜂毒の排除に精を尽くしたのであった。
そして流水で患部を洗うと、
消毒薬の代わりに酢を掛けてハイ、終了。
これできっと大丈夫なのだ。(*あくまでも私の場合)
その夜はほんの少しだけプクッと腫れたけれど、
翌日には腫れも引き、3日後にはきれいに治ったのである。
刺したハチはその後、見失ってしまったけれど、
きっとあの後すぐに死んでしまったのだと思う・・・。
ごめんね。
ハチに刺されてから間もなくのこと、
何気なく見ていたネットニュースに、
「ジョウゴグモ」という蜘蛛の猛毒が、
脳卒中による脳細胞の壊死を防げるかもしれないと書いてあった。
それならば、と蜂毒について調べてみたところ、
やっぱり書いてあった!
ガン細胞を効率的に破壊することが科学的に証明されていると。
しかも現在日本でも行われている蜂針療法は、
実は古代エジプト時代から存在していたというのだ。
血流の流れを活性化させたり、
免疫力を高めたりすることができると考えられていたようだ。
なんだかものすごく貴重なものを頂いたような気がして、
じんわりと嬉しくなってしまった。
もちろんハチの種類によっては、
アレルギー物質を含んだ蜂毒を持っているので要注意だ。
けれど私は今回の出来事を、全面的にポジティブに捉えている。
なぜなら蜂毒に含まれる数々の神経伝達物質のお陰で、
体中の細胞がプチプチと活性化したように感じるからだ。
物は考えよう。
病は気からというぐらいだから、
健康も気からやって来るに違いないのだ。
どうしてハチが寄ってくるのか、
その理由は分からないけれど、
せっかく来てくれるのだから、
これからもずっと仲良くしていきたいなと思う。
そして身近にいすぎて気づきにくい、
ハチ以外のどんな小さな命とも、
私はずっと仲良く暮らしたいなと思うのだ。
ほら、時にはこんな恩恵だってあるのだから。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
この世の中には「男性性」と「女性性」が存在する。
物理的な違いはさることながら、脳みその造りも違う。
男性は左脳的、女性は右脳的と言われけれど、
それは脳の構造に由来するらしい。
論理的思考を司る左脳、感覚的思考を司る右脳。
その二つを結ぶ神経線維の束である「脳梁」が、
男性よりも女性の方が大きいのだ。
これによって、女性は左脳と右脳が精密に連携しやすく、
五感で捉えた変化をスムーズに脳へ伝えることができるそうだ。
その利点として、女性は自分の体調や感情の変化、
周りの環境を敏感に察知することができるので、
他人に共感したり、その場の空気を読める人が多い。
しかし、感情的になりやすいという欠点がある。
対する男性はというと、左脳と右脳がうまく連携しない分、
周囲の変化には鈍感らしい。だから嫁姑問題にも鈍感なのだ。
しかし男性は論理的に物事を判断できる分、安心感がある。
そして男性の説明はとてもシンプルで分かりやすい。
こうやって見てみると、
男性と女性では根本的に違うことが分かる。
だから100%分かり合おうなんていうことは夢のまた夢。
彼氏がLINEの既読スルーをしたところで、別に深い意味はなく、
旦那さんが奥さんの近所の愚痴を聞いてくれないのも、
生きていく上で別に必要のない情報だからなのだ。たぶん。
という具合に、
私は最近何だか男性の気持ちが分かるようになってきてしまった。
自分の周りを見渡した時に、
「きっと面倒くさいと思ってるんだろうな、この旦那さん(またはこの彼氏)」
と、男性に同情していることが多く、
「もっとシンプルに、好きなら好きって言えばいいじゃん」
とか、
「かまってほしいなら遠回しすんな」
と、妻(または彼女)に向かって心の中で叫んでいる私がいるのだ。
これってヤバい兆候なのだろうか。
たとえば私の脳みそが男性化している・・・とか?
ま、それならそれでもいいやと思う。
人生はシンプルが一番だっていうことを、
日々感じて生きている今日この頃だから。
自然の美しさに感動する、人の優しさに感謝する、
私はそういうところに感情を使いたいと思っている。
素晴らしいことは右脳で感じ、
嫌なことには左脳で対処する。
私はそうやって、うまいこと脳みそを活用したいのだ。
これからもずっとずっと。
脳みそは使えば使うほどに味が出る。
なんて素晴らしいんだ!! VIVA!! 脳みそ!!
できることなら未知の領域を、
ぜひとも使いこなしてみたいとつくづく思う。
ところでAIにも、左脳と右脳はあるのだろうか・・・。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
今日、ツイッターでフォローさせて頂いている方のリツイートを読んで、
私の心がザワザワした。
ある女性が耳の聞こえない女友だちと二人で、
大好きなアーティストのライブへ行った時のエピソードだ。
二人が手話で話していたら、後方から、
「なんで聞こえないのにライブ来てんの(笑)」と、
言われたそうだ。
ツイートをしたご本人はそのことがとても引っかかっていて、
もう忘れたいと呟いていた。そして最後にこう結ばれている。
「ライブは聞こえなくても光、振動、人の動き、雰囲気・・・
いろんな要素で楽しめるんだよ。」
私はその方のご意見にまったく同感だ。
音楽は耳だけで感じるものではないのだから。
私たちの体には五感というものがある。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。
それに第六感という心の働きが加わって、
私たちは色々なものを感じ、認識できるようになっている。
そのどの部分を使って音楽や芸術を楽しむかは、
個々それぞれの自由であり、
他人にとやかく言われる筋合いはないのである。
せっかく耳が聞こえていても、
本質を聞いていないのであれば、聞こえていないも同然。
人の話をうわの空で聞いていれば、
内容も、人の心も、理解することはできないのだから。
それは見るということにも言える。
たとえ目が見えていても、
目の前の存在に無関心であれば、見えていないも同然。
せっかく子供とお散歩していても、
親がスマホばかりに気を取られていれば、
子供は一人ぼっちと同じこと。
聞こえるということ、見えるということ、
それは聞こえるもの、見えるものを、
意識して初めて成立する機能なのだ。
ただ、音を聞く、ただ、物を見る、だけでは、
耳と目に大変失礼なのである。
生き物の体というのは本当によくできていて、
五感のうちどれか一つが機能しなくても、
それを補うために、脳みそがちゃんと、
個々に合わせてカスタマイズしてくれるようになっている。
たとえば視覚を失った人の脳の視覚野は、
聴覚野へと神経細胞を伸ばしていくことが知られている。
つまりその人は目が見えない代わりに、
聴覚能力が通常の何倍にも研ぎ澄まされ、
他の人には聞こえない音まで捉えられるようになるのだ。
そしてそれは聴覚、視覚の間に限ったことではなく、
五感全体で影響を与え合うらしい。
だから耳が聞こえない、目が見えないということは、
とても不便なことではあるけれど、
それは体のある状態を指しているにすぎず、
決して何かが欠落しているわけではない。
むしろそれ以外の感覚処理能力が格段に優れているのだから、
芸術を最も感知しやすい人ということになる。
だから耳が聞こえない、目が見えないことのせいで、
何かを諦めたり、我慢する必要は微塵もないのである。
これからもじゃんじゃんライブへ行き、
じゃんじゃん絵画展へ行き、
じゃんじゃん芸術について発信すべきなのだ。
そして私が最も伝えたいこと、それは、
たとえ耳が聞こえなくても、
たとえ目が見えなくても、
心はちゃんと捉えているということ。
魂はちゃんと覚えているということ。
生きている間に聞いたすべての音を。
生きている間に見たすべての景色を。
だから、好きなだけ自由に羽ばたいて。
・・・つづく・・・
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私は「私」としてこの世にやってきた。
そして「私」のまま生きて、
いつしか「私」の歩んだ人生を終えるのだ。
人は誰しもそうやって、それぞれの「私」を生きている。
「私」の人生の主人公はいつでも私という「自我」。
意識する、しないに関わらず、
「私」はすべてのことを自分の意思で決め、動き、生きている。
そして自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたこと、
自分の口で食べたものの味を、直接感じて主観する。
幼い頃の「私」は主観するだけでよかった。
果物は美味しい、コーヒーは不味い、
お花はきれい、ドブは汚い、
あの子は優しいから好き、この子は意地悪だから嫌い・・・。
けれど大人になればそんなことばかりは言っていられない。
人間関係が死ぬほど苦しくても、生活のために退職できなかったり、
大嫌いな上司との飲み会を、立場的に断れなかったり、
後輩にいつもイライラしているのに、いい先輩のふりをしたり。
本当はそうしたくないのに、そうしてしまう自分がいて、
そんな自分が大嫌いになるときもあったりする。
人生は決していいことばかりじゃない。
けれど人生はとってもシンプルなものだと私は思うのだ。
大人になればなるほど人生はシンプルになる。
むしろ子供時代の方がよっぽど複雑で過酷ではなかったか。
40人近くいるクラスメートたちはみな、主観しか持ち合わせておらず、
どんなに思いやりのある行動をとったとしても、
それは主観の域を出ない。
純粋で楽しい時間と、妥協のない主張が共存する子供時代は、
大人が思っている以上に厳しかったりもする。
それに引き換え大人になれば、
自分の生き方を自分で決められるのだ。
親や先生の言いなりになる必要もなく、
本当にやりたくないことはやらなくてもいい。
自分の選択したことに責任さえ取れるのであれば、
人生は自由そのものだ。
自分自身を客観的に捉えてしまえば、
自分の思いがどこに繋がっているのかがすぐに分かる。
それが分かれば行くべき道もすぐに分かるから、
人生は思いのほかシンプルになる。
人間関係が死ぬほど苦しくても退職できないのは、
本当は新しい生活を恐れているのかもしれない。
大嫌いな上司との飲み会を断れないのは、
本当は人に嫌われるのが怖いからかもしれない。
こんなふうに一つ一つを客観的に見ることができたら、
何を解決すべきなのかがすぐに分かる。
不安や恐れを手放すことが、
人生をシンプルにする秘訣かもしれない。
主観を客観的に見つめることで、
本当の「私」が始まるのだ。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
日本政府のホームページにミサイル避難方法が載った。
こんなことは初めてだ。
だからと言ってビビる必要はない。ただ単に、
北朝鮮からミサイルが飛んでくる確率がゼロではないから、
政府がホームページに載せただけのこと。
ただそれだけのことなのだ。
ミサイルが飛んできてたまるもんか!という気持ちが、
日々、メラメラと私の全身を包んでいる。
なぜなら私がこの人生を生きている理由は、
「幸せに生きる」ためであって、
あんなイカれた国家元首のお遊びに付き合うためじゃない。
私にはまだまだ達成したいことが山ほどあって、
ただでさえ一日一日が貴重なのに、
なんであんなデブに振り回されなくてはならないのだ。
ということで、私は毎日タンポポたちを見つめることにした。
この季節、庭に出れば、散歩に出かければ、
タンポポや菜の花やシロツメクサが、
ほーら、こんなにキレイに咲いたよって、
クスクス笑ってたくさんの幸せを与えてくれるから。
空にはスズメやツバメやカラスやシジュウカラが、
巣作りのために忙しそうに飛んでいて、
こんなに平和な瞬間が、いつでも手を伸ばせばそこにあるから。
だから私は毎日毎日タンポポたちを見つめているのだ。
そうして与えられた幸せが今、
「愛」となって私の中に蓄積されている。
膨大な「愛」のエネルギーが私の中で圧力を高め、
それは「祈り」となって間もなく放出されるだろう。
平和な瞬間がこれからもずっとずっと続くことを願って。
「祈り」には願望を実現させる力があるということは、
すでに量子力学で立証されている。
人の想念が電子の波動を介して空間と同化することによって、
素粒子を変化させ、願望という事象を実現させるのだ。
つまりウキウキ楽しいことを考えれば、
ウキウキするような未来が、
この空間で創り出されるということ。
恐らくイカれた国家元首はドロドロした破壊の願望を、
この空間に放出しまくっていることだろうから、
私はその何百倍も上を行く、キラキラ輝く幸せの願望を、
そっちの方角目がけて放出してやろうと思っている。
あんなイカれポンチに私たちの未来を邪魔されてなるものか!
あんなイカれポンチにこの日本を、
この地球を破壊されてなるものか!!
一人でも多くの人が幸せの願望を重ね合わせれば、
祈りの力は足し算ではなく掛け算で増えることも、
祈りの実験で分かっていること。
だから一人でも多くの人がこの空間に、
幸せの願望を放ってくれたらと思うのだ。
そうすればきっと大丈夫。いいや、絶対に大丈夫。
私たちの未来は私たちのもの。
誰にも邪魔することなんてできないのだ。
タンポポの種のように縦横無尽に、
幸せの願望をこの空間に飛ばすことができたなら、
私たちの未来は私たちのもの。
私たちの未来はこれからもずっとずっと光り輝くのだ。
どんな時でも愛は勝つ!!
・・・つづく・・・
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千葉県銚子名物の「ぬれ煎餅」が私は大好きだ。
あの、しっとりとした独特の触感と、
滲み込んだ醤油味がたまらない。
いやいや、味噌味も負けず劣らず美味しいのである。
もしも誰かに「好きなだけ食ってみろ」と言われたら、
私はとめどなく食べ続けることができるだろう。
一度食べたら癖になる、
一風変わったぬれ煎餅なるものを、
そもそもどうして思いついたのか・・・。
実はぬれ煎餅は失敗から生まれた名産品なのである。
以前、銚子へ遊びに行った際に買ったぬれ煎餅の袋には、
このようなことが書いてあった。
焼いている最中に醤油タレの中に落とした煎餅を、
売り物にできないからと、
ご近所さんやお客さんにお配りしているうちに、
評判が評判を呼んでやがて商品化されたのだと。
それが今ではすっかり銚子を代表する名菓に育っているのだから、
何がきっかけで成功するかは誰にも分からない。
私は思うのだ。一見失敗に見えることというのは、
実は神様が与えてくれた優しい修正なのではないかと。
その時は思い通りにならない現実が腹立たしかったり、
絶望的な気持ちになったりするけれど、
後になって気づくことがある。
そのおかげで新たな才能に目覚めていたり、
最も自分に合った生き方をしていることに。
つまり失敗とは、成功の前触れでもあるのだ。
今年の初めに、知人の娘さんが大学受験に失敗してしまった。
ずっと目標にしてきた第一志望校に不合格となり、
やる気のすべてを失ったみたいだと、
まるで自分のことのように知人は泣いていた。
「浪人するのは嫌だから、仕方なく第二志望校に行くんだって。」
知人は絞り出すようにそう言ったけれど、
第二志望校とて十分に人々の憧れであり、
入ることがなかなか難しい大学だ。
なんて贅沢なことを言っているのだろうと、私はそう思った。
「親として娘に何を言ってあげたらいいのか分からない。」
と知人が今にも死にそうな顔をして嘆いたので、
私はつい正直な気持ちを伝えてしまった。
「第二志望校の方が、
得るものがたくさんあるってことかもしれないよ。
一番行きたかった学校に入れなかったことはとても残念だけれど、
希望通りに入学できたとしても、すべてがうまくいくとは限らないもの。」
すると知人は驚いた顔をして言ったのだ。
「そういう考え方もあるの? だって第一志望校の方が断然格上だよ。」
「格上かどうかよりも、
自分の能力を発揮できるかどうかの方が大切なんじゃないのかな。
東大卒のプー太郎と中卒の田中角栄だったら、どっちの人生に共感できる?」
「角栄。」
「私も。与たえられ環境にはきっと意味があると思うの。
だからその場所でベストを尽くして、
どんどん自分を活かせる場所にしていけばいいんだよ。
そうすればいつかきっと最高の人生になっている気がする。
仕方がないから第二志望校へ行くなんて言ったら、
他の学生さんたちにも失礼だしね。」
「そっか・・・。」
知人の涙の勢いは、いつの間にかおとなしくなっていた。
娘さん本人にしてみれば、本当に辛いことだと思うけれど、
その辛さも、今まで必死に勉強してきたことも、
何一つ無駄になることはないのだから、
自分らしい大学生活を存分に楽しめばいいのだ。
きっと4年後の春にはこの大学でよかったと、
胸を張って巣立てるだろう。
濡れた煎餅など誰が食うものかと、
失敗を失敗のまま手放してしまった人たちと、
濡れた煎餅を前向きに捉えて、
失敗を成功に変えた人たちがいる。
どんな人生にするかはすべて自分次第。
誰のせいでもないのだ。
失敗はいつでも成功の前触れだと、
気づけば怖いものは何もない。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
つい先ほど、驚くべきというか、
遂にというニュースが日本中を駆け巡った。
午後11時台のニュース番組はどの局も、
急遽浅田真央引退のコーナーを設け、
過去の競技映像を慌てて編集していた。
近い将来こうなることは予想できたけれど、
それでもやっぱり真央ちゃんには、
選手として滑り続けてほしかったなと思う。
真央ちゃんに関してはもう、順位などどうでもよくて、
ただ、滑る姿を見られるだけでよかった。
彼女は孤高の人。別次元の存在だから。
15歳でシニアに転向し、
初めて参戦したグランプリシリーズのファイナルで、
いきなり優勝してしまった真央ちゃん。
世界中が彼女の完璧なトリプルアクセルに衝撃を受け、
彗星の如く現れた天才少女として大絶賛された。
あれから11年、真央ちゃんは常にドラマを作り続けてきた。
2010年のバンクーバーオリンピックでは、
ライバルのキム・ヨナに敗れ、
銀メダルの悔しさに涙が止まらなかった。
2011年12月のグランプリファイナルでは、
現地カナダでお母さんの病状悪化を知り、急遽欠場を決めて帰国。
けれどその甲斐空しく、死に目に会うことができずに、
お母さんは48歳の若さで急逝してしまった。
真央ちゃんが涙を流すたびに、私も一緒に泣いていた。
雪辱を晴らすためのソチオリンピックでは、
ショートプログラムでジャンプを失敗し、その時点でまさかの16位。
真央ちゃんはもう終わりだと思った。
ところがフリープログラムで6種類8度の3回転ジャンプすべてを着氷し、
見事に最終順位を6位にまで挽回したのだった。
メダルこそ逃したものの、
どれほど多くの人たちがこの快進撃に驚き、感動の涙を流したことだろう。
これが浅田真央という人なのだ。
彼女の滑りはドラマそのもの。
彼女の演技を見ているだけで、私は妙に泣けてくる。
素晴らしい選手は日本にも外国にもたくさんいるけれど、
滑りだけで泣かせる選手は他にはいない。
それはきっと、たった26歳という若さで、
あまりに多くのことを背負ってきたからだろう。
想像を絶するプレッシャーや、悲しみ、苦しみ、
数々の達成感と相反する挫折とを。
その一つ一つすべてを乗り超えてきた浅田真央だからこそ、
滑りで心を表現できるのだ。
真央ちゃんの現役引退はとても寂しいことではあるけれど、
彼女ならきっとこれからも夢を届けてくれるに違いない。
今までありったけの愛と感動を与えてくれたことに、
ただひたすらありがとうと伝えよう。
長い間、世界中の人々を幸せにしてくれた真央ちゃん、
今まで本当にお疲れさまでした。
・・・つづく・・・
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JUGEMテーマ:エッセイ
シリア、イドリブ県で、
毒ガス攻撃により72人が亡くなり、
その内の20人が赤ちゃんと幼い子供だった。
シリア政府軍の攻撃と判断した米軍が、
すぐさまシリアの軍事施設を爆撃し、
それに対する報復措置として、
ロシア軍が再びイドリブ県を空爆した。
今度は子供5人を含む民間人18人が亡くなった・・・。
人間て、やっぱりバカなのだろうか。
それとも過去の経験から学べない生き物なのだろうか。
幾度の戦いを経て、得られたものなど何もないではないか。
その度に犠牲になったのは、戦いを望まない者たちばかり。
ミサイル一発、飛ばすのをやめたら、
たくさんの命が無駄死にしなくてすむのに。
ミサイル一発分の軍事費を食料に置き換えれば、
たくさんの飢えた子供が満腹になるのに。
目には目を、歯には歯を、
そんなことばかりやっているから、
アサドもプーチンも微笑み筋が退化して、
笑顔を作ることさえできなくなってしまったのだ。
その青い目に一度でも現実を映したことがあるだろうか。
子供たちがもがき苦しんで死んでいく姿を。
その歯で噛み砕いている贅沢な食事が、
人々の憧れだということを理解しているだろうか。
持っているのに与えない。与えないのに奪う人。
どの時代にも現れる、膿の役割を持った人たち。
私たちの役割は、その膿の勢いを上回る愛で、
子供たちと地球の未来を守ることなのだ。
数々の過ちの先に、今、私たちはこうして生きている。
失ったたくさんの命のためにも、
今度こそ一人一人が愛を選択していかなくてはならない。
世界中のすべての命が笑顔で生きられるように。
目を細めて笑う。嬉しくて白い歯がこぼれる。
目と歯は戦いではなく、「笑顔」に必要不可欠なもの。
世界中のどの命も、
笑顔で生きる権利を等しく持っているのだ。
・・・つづく・・・
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